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浮き立つ文様の詩情~海老ケ瀬順子の穀織(こめおり)~|和織物語

著者:外舘和子(多摩美術大学教授)

注目される第四の織―捩り織

 かつて基本的な織組織と言えば、「織の三原組織」即ち経糸・緯糸が一本ずつ交差する最もベーシックな「平織」、折目が斜めに並んで見える「綾織」、生地に光沢が出やすい「繻子織」の三種が紹介されることが一般的であった。

 しかし、近年の文献ではそれらに「捩り織(もじりおり)」を加えて「織の四原組織」として説明されることが多いようである。「捩り織」は緯糸の間で経糸が捩れて隙間ができる薄く透けた織物であり、紗、絽、羅はその代表的なものである。

 近年、こうした「捩り織」が織の四原組織の一つとして取り上げられるようになったのは、1956年に喜多川平朗が羅で重要無形文化財保持者に認定された後、特に北村武資(註1)が1995年に「羅」で、また土屋順紀が2010年に「紋紗」で認定されるなど、創意に富んだ「捩り織」が注目され、さらに彼らに続く意欲的な「捩り織」の作家が増えつつあるからであろう。
 
 海老ケ瀬順子が最も力を注ぎ、取り組んできた「穀織」もまた、こうした薄物と呼ばれる「捩り織」による織物の一種である。その源流とされる「対捩浮文紗(ついもじりうきもんしゃ)」は正倉院宝物の夾纈裂(きょうけちぎれ)にも見出される。作家はどのように穀織と出会い、穀織によってどのような世界を築いてきたのであろうか。

女子美術短期大学で服飾を学ぶ

 海老ケ瀬順子は1957年、船乗りの父と呉服屋の娘であった母の長女として金沢に生まれた。父の仕事の関係で、間もなく関西に移り、高校卒業後の1976年、女子美術短期大学の服飾科に進んでいる。

 1970年代の終わり頃は、日本の有名ファッション・デザイナーが活躍し始める時代でもあり、海老ケ瀬は生計を立てることも考えて洋服作りを選んだという。

 しかし、同大でモデルのように華やかな学生と、一方で黙々と縫い子に徹するような学生に囲まれながら、作家は洋服の難しさを体験した。当時は柳宗悦の甥で染織家の柳悦孝(よしたか)が学長をしており、工芸科の充実した織の設備を横目に憧れながら、同大を卒業している。但し、自立した女性の在り方や、女性の社会貢献をいち早く謳ってきた同大の空気に触れ、洋服を通して“布”や“衣装”を経験したことは、海老ケ瀬にとって染織への最初の一歩であったに違いない。

光徳寺での染織修業を経て北村武資の弟子に

 海老ケ瀬の両親の実家に近い富山県南砺市に、1471年建立の光徳寺という浄土真宗の名刹がある。住職が棟方志功や河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉らと交流し、民芸運動にも理解のあったこの寺には、民芸協会の紬織工房があり、藍染や植物染めも行われていた。

 海老ケ瀬は短大卒業後の1978年、住み込みでこの紬織工房に入門し、ここで一年半、紬織の修業をし、植物染料による染めも覚えていく。修業中、寺を訪れた白洲正子、黒田辰秋にお茶を出すなど、作家は貴重な経験もした。

 その後、信州その他の地域の織も見て歩いたが、縁あって1980年、西陣の北村武資に師事することになる。1980年当時、北村武資の工房では、現在、紋紗を手掛ける松田えり子が内弟子をしており、海老ケ瀬は通いで弟子入りすることとなった。作家は、北村武資と兄の会社「織匠北むら」の仕事を通じ、帯や着物を織る中で織の基本を学んだ。

 師・北村の初個展の作品制作の際、海老ケ瀬の光徳寺の経験が役立ち、しばらくの間、作家は北村作品の糸染めを担当した。しかし、海老ケ瀬の弟子入りの目的は織を学ぶことである。師もそれを考え、海老ケ瀬が織を研究するための機を用意してくれた。土日はこの研究用の機で紋紗や絽など様々な織を試みた。西陣で続けるタイプではなかろうから、多様な織を経験しておくとよいだろうという師・北村の配慮もあったのではないかと作家は回想する。北村は訊けば何でも答えてくれる頼もしい指導者であった。

※穀織(こめおり)の「穀」は、左下が「禾」ではなく「糸」

穀織との出会いと独立

 海老ケ瀬の穀織との出会いも、北村武資の弟子をしていた時である。ある日、北村哲郎の著書『日本の織物』(源流ブックス、昭和52年版)の穀織の図版を見て「薄物にぽつぽつと。北村先生のものとも違う。何だろう」と興味を覚えたのだという(註2)。

 確かに、同書の97頁には、穀織の作例として《繁菱文黄穀(しげびしもんきのこめ)》と題された国宝の鶴岡八幡宮神宝装束の模造の部分図版が出ている。まさに「米粒を並べたような」立体的な糸の粒が菱形模様を形成している。同書に拠れば装束では裏を表として使う場合もあるという。

 海老ケ瀬が師・北村に穀織について相談すると、即座に様々な助言をくれた。六十口の木製ジャカードを北村から提供され、研究用の機の上部にセットし、海老ケ瀬は穀織を試みる。最初の穀織の試作が、いわば北村工房の修了制作となった。

 1984年、海老ケ瀬は北村のもとから独立し、陶芸家の夫とともに海老ケ瀬工房を設立、京都府綾部市で制作するようになる。現在の機は、北村の指導により、さらに改良された長い機となっている(下図)。なお、作家が使用しているこうしたジャカード付き高機の各部品などの作り手は、今日、次第に減ってきている。代替品では補い難いものもあるだろう。工芸制作を支える部品や道具の再生産に取り組む協会や団体、システム等が必要な時代かもしれない。

海老ケ瀬順子作(手前)プラチナボーイ 穀織着物 「ZEN」、(奥)穀織着物 「そっと咲く」

穀織の工程と特徴

 穀織は、右捩りと左捩りを一組とする対捩り(観音紗)である。その制作は大まかに4工程で進められる。

 まず、「設計と糸染め、整経」。意匠の設計図を作り、糸を染め、整経する。海老ケ瀬は、経糸に生糸を、緯糸に撚りの甘い練糸を使い、緯糸がふっくらと出る方を織物の表としている。染については緯糸が経糸よりやや薄く染まるように調整することが多い。穀織の紋様が際立つ反面、まさに“紗がかかったように”緯糸によって全体の色の彩度が落ちる事も計算する必要がある。緯糸には濃い目に糊をつけておく。

 次に「機ごしらえ」と呼ばれる工程。穀織の捩れを作り出すための機のセッティングである。2枚の振綜(ふるえ)と呼ばれるもので経糸の捩りを作りだすことが穀織の特徴の一つである。糸を張った状態の時、機がバランスよく動くよう、機の様々な部分を調整していくことが美しく織り上げるためには必須である。

 続いて「紋紙作り」。文様に即してボール紙に金槌で紋を彫り、縄で紋紙を堅く編んでジャカードに取り付ける。今日では紋紙の役割はパソコン操作にとって代わられたが、海老ケ瀬は紋紙を手作業で作る。紋紙は模様により120枚~130枚にもなる。作家によれば「機織りのイメージから最も遠い仕事」である。

 そうした複雑な長い工程を経て、漸く最後の「織り」に入ることができる。試し織りをして紋の間隔や形状を確認し、場合によっては紋紙を足すこともあるという。西陣なら通常、分業で行われるこうした工程を、海老ケ瀬は一人で行う。

 織のデザインに際し、色鉛筆などの図案だけでは想像しにくい為、実際の色糸の状態で色の組み合わせを決めていくが、それでも緯糸を入れることによって一枚ベールを被せたようにみえる色調は、生地になり、さらに着物になった時、想像を超える発色を示し、また角度によって色調が変化してみえるため、作家は毎回、難しさを感じるという。しかしまた、その複雑さ、奥深さも穀織の魅力なのである。

浮き立つ穀織の文様で詩情を詠う

 独立して2年目の1986年、海老ケ瀬は麻の帯地を出品して第15回日本伝統工芸近畿展に初入選し、1988年にはその第17回展に穀織の帯を出品している。この頃に制作した茜一色の穀織の帯地は、立体的なストライプの中に、穀織の赤い粒状の点が45度傾けた正方形を十字に分断したような形を形成し、それがリズミカルに繰り返される軽やかにして華やかな織物である(下図)。それは日本伝統工芸展では選外となったものの、作家が穀織の可能性を確信した重要な
作となった。 

 

 その後、子育てなどもあり、しばらく公募展からは遠ざかり、夫との二人展を関西のギャラリーなどで行っていた。2006年に再び日本伝統工芸展に出品し始めたのは、病に倒れた工芸好きの父を喜ばせたいという思いもあったという。
 
 2006年、10数年ぶりに出品した第35回日本伝統工芸近畿展で京都府教育委員会教育長賞を受賞した《穀織着尺「夜の調べ」》以後、受賞作の銘からも窺われるように「玄光」(2007年)、「玉鬘」(2010、「湖畔に風吹く」(2011年)、「美術館のカフェテリア」(2011年)など、作家は一貫して穀織で詩情豊かな世界を表現してきた。さらに、昨年 第六十三回日本伝統工芸展で文部科学大臣賞を受賞した《穀織着物「海に聞く」》(2016年)は藍と絣と穀織の文様が存在感ある構成を示している。 「ただ着るモノというのではなく、自分の湧き上がってきた感情を織りたい」と作家は言う。タイトルは完成後につけることが多いのだそうだ。そうした作品はいずれも、一領ごとの色数は押さえつつ、穀織の立体的な粒状の模様にしばしば縞や絣を組み合わせ、幻想的で充実した内容となっている。

 薄物の世界では、その軽快感に沿った明るい色調のものが多いが、海老ケ瀬が時に重厚なこっくりとした色味も採用することがあるのは、民芸の工房で紬を学んだ経験が活かされているからでもあろう。

 殊に穀織の浮き文様は、部分で見ると愛らしいが、着物全体の透けた空間の中では、洗練された高貴な風情を示す。時に重みのある色も採用できるのは、穀織の力でもある。織りの長い段取りと工程の中で、織物という知的芸術は、自ずと作者の感情を整理し、抽象化し、かつきめ細やかな心の機微を一篇の詩のように詠うのである。

註1 北村武資は2000年経錦でも認定されている。 註2 海老ケ瀬順子への筆者インタビュー、於京都府綾部市海老ケ瀬工房、2017年3月2日。

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