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銀座の柳は3度の復活を遂げた!? 世界的にも愛される植物・柳の歴史と魅力を解説|知るを楽しむ

銀座のシンボルとして知られている柳。なぜここまで銀座に柳というイメージがついたのでしょうか?銀座の歴史とともに、世界的にも人類と密接に関わり続けてきた柳の知られざる姿を解説していきます。

銀座の柳の歴史

柳が初めて銀座に植えられたのは明治初期。以降、100年以上も街のシンボルとして銀座の人々に長年愛され続けていますが、実はその間何度も柳はさまざまな理由によって銀座から姿を消しています。しかし、そのたびに銀座の人々の強い想いにより復活を遂げ、今に受け継がれているのです。

西洋化を象徴する銀座の街に誕生した初代柳

明治初期の銀座は、日本で初めて煉瓦造りの建物やガス灯が設置されるなど、西洋化が積極的に進められており、文明開化を象徴する街と言われていました。銀座に柳が登場したのもこの流れの一環で、欧米の街路樹にヒントを得て植えられたのがはじまりです。

とはいっても、最初に植えられたのは柳ではありませんでした。もともとは、桜や松、楓が植えられましたが、いずれも埋立地で水気の多い銀座の地では上手く育たず、最終的に選ばれたのが水に強い柳だったのです。

1921年頃の銀座。(『銀座通り(東京)』 / ニューヨーク公共図書館)
1921年頃の銀座。(『銀座通り(東京)』 / ニューヨーク公共図書館)

1884(明治17)年には銀座の街路樹のほとんどが柳になり、以降30年以上に渡って界隈に住む人々や銀座を愛する文化人に親しまれました。しかし、大正期に入り、東京市の道路改修計画の都合から柳が撤去されることに。当時多くの地元住民から強く反対の声が上がり、市議会でも問題になりましたが結局断行され、1921(大正10)年には銀座の柳はすべて抜き去られてしまったのです。多くの人たちは失われた柳を惜しみ、「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ」(東京行進曲)などの流行歌も大ヒットしました。

その後、街路樹として新たにイチョウが植えられましたが、直後に起きた関東大震災で全焼してしまいます。

(『東京銀座通の焼跡』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)
(『東京銀座通の焼跡』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)

震災の復興とともに復活を遂げた2代目の柳

帝都復興祭の様子。(『銀座通り市民の雑踏 帝都復興祭記念 市内の光景』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)
帝都復興祭の様子。(『銀座通り市民の雑踏 帝都復興祭記念 市内の光景』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)

関東大震災により壊滅的なダメージを受けた銀座の街ですが、徐々に活気を取り戻し、1930(昭和5)年には帝都復興祭が行われ、震災復興がひと段落します。

そんな折、朝日新聞社の東京進出記念企画として、同社の寄贈により、銀座通りと拡幅された晴海通りに合計268本の柳が植えられ、この年から柳まつりもスタートしました。さらに、歳時記に春の季語として柳が採用されたり、「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残のうすみどり」という柳の歌も作られたりと、大いに盛り上がりを見せました。

三越の屋上から新橋方面を望んだ銀座大通りの様子。(『銀座大通り』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)
三越の屋上から新橋方面を望んだ銀座大通りの様子。(『銀座大通り』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)

待ちに待った柳復活の喜びも束の間、次第に日本を取り巻く国際情勢が厳しくなり、1938(昭和13)年の国家総動員法の公布により柳まつりは中止に追い込まれます。そして1945(昭和20)年の春には三度の空襲によって、街とともに柳も8割が焼失してしまいました。

戦後から今に受け継がれる3代目の柳

(『帝都随一の商店街銀座大通』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)
(『帝都随一の商店街銀座大通』 / 東京都立図書館デジタルアーカイブ)

戦後、1948(昭和23)年になると、銀座通連合会は焼失した柳を補植し、柳まつりを復活させますが、地下鉄日比谷線の建設や都電廃止後の大改修のため、またもや柳は撤去されます。この時も、「銀座恋しや柳の並木 今は光の並木路」と『銀座音頭』に歌われるなど、柳を惜しむ声は後を絶ちませんでした。

そして1984(昭和59)年5月、「目黒区内に残る銀座の柳」の紹介記事が朝日新聞に掲載。「銀座生まれの柳の木が1本、戦火を逃れ目黒区内で生きている」という内容のものでした。この新聞記事をきっかけとして、勝又康雄さんと故・椎葉一二さんによる「銀座の柳」の復活活動がスタート。同年12月、3本の柳の木が残る日野苗圃を訪れますが、樹木ごとの移植は無理と知り、枝50本をもらい川崎の椎葉山荘へ。150本の挿し木を行ったうち86本を根付かせることに成功したのです。以降今日まで初代柳を抜く長き年月にわたって銀座の街を見守り続けています。

※記録文献により銀座の柳の復活時期は前後することがありす。

吉と不吉をあわせもつ神秘的な植物

ここからは、銀座の柳から少し視点を外し、そもそも柳は人間にとって歴史的にどのような存在だったのかを見ていきましょう。

柳は、日本のみならず実は世界中で人々の生活と密接に関わり合ってきました。古くから籠や農具など日常の道具の素材に用いられるほか、治療薬としても重宝されており、解熱鎮痛薬やリウマチの薬などに使われるアスピリンは、もともと柳の樹皮から抽出された成分に由来しています。

実用面で多用される一方、柳は挿し木にしても容易に根付く高い復活力があり、また春に芽吹くことから生命力や長寿の象徴とされ、邪気払いや魔除けのために世界各地でお守りや占いなどにも用いられてきました。

例えば、キリスト教では古くから清浄のシンボルにされたり、邪気を払う力があることから僧侶を守る腰帯に使われたりしていたそうです。中国では清明節に柳の枝を門の横木や井戸端、馬車などに挿す、柳で作った輪を頭にのせるなどの風習があり、日本でも柳は霊力を持つ木として神聖視されていることから、正月には柳で作られた祝箸を使うなどの習慣が残っています。

このように、柳は生命力に富んだ縁起のいい植物とされていますが、同時に死や悲しみを連想させる植物とも言われているのです。古代ギリシアでは冥府と魔術の女神ヘカテの聖樹とされていたり、古代エジプトの墓に眠るミイラが、柳の葉の冠と環で飾られていたりする事例も見られます。また、日本では、江戸時代に流刑地でもあった新島の刑場跡へと続く道には柳が植えられており、この柳は刑が執行される直前に罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼ばれているそうです。なぜ柳が植えられたのかは定かではありませんが、死を思わせる呪術的な理由があったのではないかと想像させられます。

柳にこのような相反するイメージが生まれた理由として、トロント大学現代美術史の准教授アリソン・サイム氏は自著『柳の文化誌』の中で、「こうした象徴としての両義性が生まれたのは、ひとつには柳が驚くほどの復活力を備えているためである。地に落ちて、もはや死んだとしか思えない枝からなぜか根が出て、新たに芽を吹く光景は、死からの再生の魔法を見ているような心地にさせられる」と説明。

人々にとって柳の生命力は非常に神秘的だった故に、神聖視される一方、畏怖の念をも持つことになったのでしょう。

『名所江戸百景・八ツ見のはし』
(『名所江戸百景・八ツ見のはし』 / ColBase

そんな生と死の両方を想起させるからこそ、人々は柳にさまざまな思いを託しました。それは先に説明したような文化や慣習になったものもあれば、時に詩や絵画といった芸術作品に昇華されることもありました。例えば、シェイクスピアは作中における悲哀のシーンで柳を多用しており、またアンデルセンは童話作品『柳の木の下で』で、屈託のない子供時代から孤独に死んでしまう晩年を結びつける演出として柳を登場させています。日本でも『万葉集』や『懐風藻』といった歌集や詩集、浮世絵をはじめとする絵画などに頻繁に登場し、心情や情景をドラマティックに描写するモチーフのひとつとなっています。

これからも銀座は柳とともに

生と死を象徴する植物として、古くからさまざまな形で人類と深くかかわってきた柳。

銀座の柳も同様で、街や人とともにさまざまな社会の変化に翻弄され、喪失と復活を繰り返しながらもたくましく生き続ける様子は、我々の目には非常にドラマティックに映り、銀座や柳をテーマにした詩や歌がたびたび生まれたのも頷ける気がします。

銀座の柳は、これからも時代とともに目まぐるしく移り行く銀座の街を、静かに、そして力強く見守り続けていくことでしょう。


【参考資料】
・『私の銀座風俗史』石丸雄司 / ぎょうせい
・『柳の文化誌』アリソン・サイム / 原書房
・『銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ』 / 東洋経済オンライン
・『銀座の柳』車谷弘 / 埼玉福祉会

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