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日本の型紙はアール・ヌーヴォーの源泉に。浮世絵や着物だけじゃない、もうひとつのジャポニスム|知るを楽しむ

19世紀後半から20世紀初めに欧米で流行したジャポニスム。1862年の第2回ロンドン万博で設けられた日本コーナーにて、幕末のイギリス駐日公使オールコックの収集品が展示されたことを皮切りに、日本の浮世絵や染織品、漆器、仏像、陶磁器など幅広い品物が紹介され、西欧の多くのデザイナーや芸術家、建築家たちに刺激を与えました。
※英語ではジャポニズム(英: Japonism)と表記しますが、本稿では仏語のジャポニスム(仏: Japonisme)で表記しています。

そんなジャポニスムを牽引した文物の中に着物が含まれていたのは既知の通りですが、型紙も含まれていたことはご存じでしょうか。

江戸小紋を染める伊勢型紙をはじめ、中形や型友禅、紅型染などの染色に用いて繊細な柄を表現する型紙。海を渡った型紙たちは、欧米諸国でどのように扱われたのでしょうか。

海外に大量に保管されている型紙

『Stencil with Theme from Matsukaze』(メトロポリタン美術館)

近年、大量の型紙が欧米各地の美術館に収蔵されていることが明らかになりました。高木陽子氏(文化学園大学教授)によると、その数はパリの装飾美術館に1,500点、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館に4000点 、ウィーンの国立工芸美術館に10,000点、ドレスデンの工芸美術館に16,000点など、膨大な枚数に及びます。

何千何万という大量の型紙が日本から欧米へ渡っていたにもかかわらず、なぜこれまであまり注目されてこなかったのか。それは、日本人にとって型紙が美術品や実用品でもなく、単なる道具に過ぎなかったからと考えられます。

高木氏によると、染師の工房にはたくさんの型紙が存在していましたが、一般に出回ることはなく、使用済みのものの多くは消耗品として使い捨てられてきました。そのため、そもそも日本において型紙自体の認知度が低く、コレクターや博物館・美術館の積極的な収集・展示の対象にならなかったと述べています。

日本の型紙がなぜ海外に大量に流出しているのか。その来歴については、具体的な記録や資料がほとんど存在しておらず、明らかになっていない部分が多いのが現状です。

海を渡った型紙の行方

型紙(メトロポリタン美術館)

海外に渡った経緯は定かではないものの、1880年代頃に型紙は本格的に欧米諸国から注目されるようになり、各国の地域特有のニーズに応じてさまざまな受容がなされました。

具体的にどのように活用されていたのか、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツを例に見ていきましょう。

【イギリス】産業デザインの発展に貢献した型紙

『Pink and Rose』ウィリアム・モリス(メトロポリタン美術館)

世界で最初の万国博覧会である1851年の第1回ロンドン万博。最大の目玉展示物でもあった水晶宮(クリスタルパレス)は、当時の最先端技術によってガラスと鉄で建築されたもので、大きな話題を呼びました。


1851年第1回ロンドン万国博覧会の水晶宮(クリスタル・パレス)

一方で、各国の展示が並ぶ中で顕著になったのは、イギリスのデザインの貧弱さでした。そこで、装飾芸術や産業芸術を発展させるために、万博の翌年にヴィクトリア&アルバート博物館(1957年に移転し一時期サウス・ケンジントン博物館と改称)を設置し、職人と民衆の美的教育に注力。そんな中でイギリスの多くの建築家やデザイナーを刺激したのが日本の展示品でした。先述した通り、1862年の第2回ロンドン万博で日本の工芸品や日用品が紹介されたのをきっかけに、次第にジャポニスムは巷を席巻。センスにあふれた日本のデザインを取り入れた調度品に囲まれた生活を好む人々が増えていったのです。

型紙に注目が集まるのは1880年代になってから。1882年に工芸デザイナーのクリストファー・ドレッサーが初めて著作で型紙を紹介して以降、徐々に認知されるようになっていきました。当時のイギリスでは、芸術家や中流階級など一部の層に限られていた室内装飾の趣味が大衆レベルにまで波及。人々は雑誌や広告、手引書などを参考に、低価格でオシャレに装飾できるツールを選ぶようになりました。今でいうDIYに近い感覚でしょうか。室内装飾は女性を中心に美的センスを発揮させる場となっていましたが、その格好のツールとして型紙は最適だったのです。実際、1884年にはリバティ百貨店※が表面装飾のためのステンシル用に型紙を販売しています。

※リバティ百貨店・・・「リバティプリント」でも知られるロンドンの老舗百貨店。1875年に日本や東洋の芸術工芸品を販売する店として開業。

『Fireplace Surround』トーマス・ジェキル(シカゴ美術館)

型紙のデザインは平面の連続模様であることから、機械生産されるテキスタイルや壁紙など、さまざまな媒体に応用しやすいという利点がありました。そのため、型紙は大衆が求める手ごろな価格とセンスの良さを両立させるデザインソースとして重宝されたのです。その他、カーライルやマンチェスターなどの綿織物工場でも型紙を収集し、デザインを参考にしながら新たなテキスタイルのパターンを開発していたといいます。

このように日本の型紙は、停滞していたイギリスの産業芸術発展の大きな起爆剤となったのです。

【アメリカ】富裕層のための高級日用品となった型紙

『フィラデルフィア万国博覧会 本館日本出品場』(東京国立博物館 / 国立文化財機構所蔵品統合検索システム

西欧のジャポニスムの流行はアメリカにも広がり、イギリスと同様、インテリアやデザインを中心に発展。型紙を含む日本の美術品をはじめ、アジアやインド、イスラム圏などの作例を参照し、新たな芸術活動を開花させようとしていました。

日本バザーが開催された1876年のフィラデルフィア万博からその傾向は顕著になり、都市部に続々と日本雑貨店が開店。高級品から安価なものまで、簡単に日本の品が手に入るようになり、型紙も富裕層のための高級日用品のデザインに用いられ、目的は不明ですが型紙そのものを収集する家庭もあったといいます。

型紙(メトロポリタン美術館)

また、コレクターたちも型紙をはじめとする日本美術の普及に大きく貢献しています。著名なコレクターたちがこぞって日本各地を回って、良い品を収集。現在、その品々の多くがアメリカの美術館などに寄贈されています。

【フランス】アール・ヌーヴォーの芸術家たちのアイデアソースとなった型紙


『Druid Vase』ルネ・ラリック(シカゴ美術館)

アール・ヌーヴォーが開花したフランスは、日本文化への関心が高く、もっともジャポニスムが広く深く展開したといっても過言ではない国です。

イギリスは産業界先導で型紙が受容されましたが、フランスで型紙を先導したのは芸術家やデザイナーたちでした。

家具、テキスタイル、壁紙、食器、金属品、衣装など、装飾芸術の幅広い分野において、デザインの参考のために日本の工芸品を収集。その中にはもちろん型紙もありました。具体的に、このデザインにはこの型紙が利用された、と示されている例はほとんどありませんが、ルネ・ラリックらアール・ヌーヴォーの宝飾作家たちにとって「日本の型紙の研究は重要なイメージの源泉であった」と伝えられています。


『Laziness』フェリックス・ヴァロットン(シカゴ美術館)

また、美術史家の馬淵明子氏は、型紙の特徴を、渋紙と白の単純な色彩であることと、自然モチーフを簡潔なデザインに還元し、一定のリズミカルな構図に配置していることであると指摘。簡潔で洗練された平面的な造形と、自然の生物や植物への親しみのあるモチーフはさまざまな装飾に応用しやすく、アール・ヌーヴォーやアール・デコの豊かな成果を生み出す契機になったと説いています。


エミール・ガレ(アムステルダム国立美術館)

【ドイツ】教材として使われた型紙

ドイツもユーゲント・シュティール、いわゆるアール・ヌーヴォー様式が広まった国の一つです。
19世紀後半のドイツは、政治経済の分野においてイギリスやフランスなどの先進国から大きく後れをとっていました。特に自国製品は世界市場で「安かろう、悪かろう」の代名詞になっていたため品質改良が急務で、打開策として工芸美術館を設立。地域振興や職人・産業従事者の育成、消費者の趣味向上に寄与することが求められていたため、「見て楽しむ作品」ではなく「見て役に立つ」作品を収集・所蔵し、付属の工芸学校の教材としても活用。その中に型紙もあったのです。


『Fragment』(シカゴ美術館)

型紙は、新たな造形を模索する際の手本として積極的に収集され、現在ドイツではほぼ全土で型紙コレクションを見出すことができるのだそう。さらに、仏・英・独の三か国語で出版された雑誌『芸術の日本』(1887-1891年)をはじめとする出版物も、型紙の普及に大きく寄与。これらの出版物は単に芸術作品として眺めるものではなく、時代に即した新たな造形原理を求める人々の手本となるよう編集されていました。

ドイツで型紙が受容された理由として池田祐子氏(京都国立近代美術館)は、「型紙が基本的にモノクロ素描であるように、表現手段の簡素化から、確かな様式化は生み出される」と指摘したユストゥス・ブリンクマンの言葉を紹介しつつ、それに加えて、殖産興業と人々の日用品の質向上を目指していたドイツの社会的事情から、大量生産のための道具としての機能を持っていたことも評価されたからではないかと考察しています。

※ユストゥス・ブリンクマン・・・ドイツ随一の日本コレクションを誇るハンブルク美術工芸博物館の初代館長。

身近なものに隠れている日本の価値

今まで日本において、着物や浮世絵などより注目される機会が少なかったものの、実は欧米諸国の装飾芸術に大きく貢献していた型紙。高度な手作業を要する技法の習得や、その模様の意図や古典文学とのつながりについての理解については及んでいないものの、型紙に彫られた独創的な文様は、停滞していた西欧の芸術装飾の新たなイメージソースとなったのです。

今回はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツでの型紙の受容についてご紹介しましたが、ほかにもオランダやオーストリア、ベルギーなど広域にわたって型紙は広く各国のデザイン文化に影響を与えていると考えられています。

第2回ロンドン万博にて、駐日公使・オールコック選品の収集品が公開された時、それを見た幕府の遣欧使節団は、「まるでがらくたの寄せ集めのようだった」と感じたといいます。けれども、当時の西欧の人々にとっては、奇異なるものであると同時に、その卓越した技術や独創的な模様の数々は、十分創作意欲を駆り立てるものになり得たのでしょう。深井晃子氏(京都服飾文化研究財団名誉キュレーター)は「こうした品々を作り出した日本の職人たちの技量と、そこで用いられた目にしたこともない素晴らしい素材に対する驚きと敬意の念こそ、ジャポニズムがただ観念的な流行としてだけではなく生活レベルまで浸透し、それゆえに大きなうねりとなった理由であることを見逃してはならない」と述べています。

完成された作品だけでなく、その作品を作る道具や日用品までもが世界の大きなアートトレンドを生み出すきっかけになっていた日本文化。私たちの周りには、型紙のように日本人だからこそ気づけていない日本の尊ぶべき価値がまだまだ眠っているのかもしれません。


銀座もとじでは、そんな型紙を使って美しく染色された江戸小紋をたっぷり堪能できる展示会を開催。精緻な技術と美しい模様で奏でられる、江戸小紋師・菊池宏美さんの洗練美際立つ江戸小紋。この機会にぜひご覧ください。

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【参考記事】
『型染紙とジャポニズムー技術、図像パターン伝播の諸相ー』高木陽子
『KATAGAMI style』日本経済新聞社
『ジャポニスム イン ファッション 海を渡ったキモノ』深井晃子(平凡社)

 

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菊池宏美展~江戸小紋の姿情~

江戸小紋 菊池宏美

師である藍田正雄氏の江戸小紋に魅せられ、門を叩き修行、そして独立。「心技体、この道で生きていく全てを伝授いただいた。自分の江戸小紋をつくり続けることが、今は亡き師をはじめ、出会えた方々へのご恩返しです」と語ります。
奥ゆかしさの中に漂う品格、その姿情は正に江戸小紋の真髄。
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