2023年9月15日(金)〜17日(日)に開催の「菊池宏美展〜江戸小紋の姿情」に向けて、群馬県伊勢崎市にある菊池さんの工房「よし菊」を訪問させていただきました。この工房内で、菊池さんは型付けから染め、蒸し、仕上げまでのすべての工程を行っています。
モミの木の長板は
師・藍田正雄さんから
譲り受けた宝物
どんな柄も安心して染められる節のない一枚板。故き師・藍田さんの愛情が詰まっている。
「板場」と呼ばれる土間の中央には、風格漂う年季の入った長板。 この全長7メートルの板の上で、江戸小紋の手技の真髄である「型付け」が行われます。
「2011年に独立する時に、修行時代に使っていたものを2枚、藍田先生が譲ってくださったんです」
糊の水分量をほどよく調整してくれるモミの木の柾目の長板は大変貴重なもの。 節目があると微妙な凹凸が柄に影響するため、今も細かい柄の時はこの板で型付けをされているそうです。
板場では糊が乾燥しないよう、一年を通して冷暖房はつけないとのこと。 夏場は作業時間を夜間にするなど工夫されているそうですが、最近は夜も気温が下がらず大変だそうです。
板の中央を支点に「てこの原理」で担ぎ上げる
湿度の高い空間で汗だくの作業、しかも重い板を扱う板場仕事は昔から男性が担うものでしたが、師匠の藍田正雄さんは既成概念にとらわれず「てこの原理を使えば女性でも大丈夫」と、男女の隔てなく仕事を教えてくださったそうです。
「渡り職人をされていたから板を担ぐことも多くて、先生は背中の筋肉がすごかったんですよ」
試しにと、私たちスタッフも大切な板を担がせていただきましたが・・・よろよろふらふら、中には1ミリも動かせない者もいました。
板が歪まないよう縦にして頭上に収納。
伊勢型紙で糊を置く
江戸小紋の真骨頂「型付け」
江戸小紋の制作工程では、大きくは3種類の糊が登場します。長板に生地を固定するための「ねばのり」。 伊勢型紙を用いて文様を白く染め残すための防染糊「目のり」(型付け)。さらにその糊が乾いた上から塗って、地色を染めるための色糊「地のり」(しごき染め)。 菊池さんは使用される糊のすべてを手作りされています。
もち粉をお湯で溶いた手づくりの糊、通称「ねば」。
板に「ねばのり」を薄く伸ばし、一度乾燥させてから霧吹きで湿らせると、切手の裏のような程よい接着力で生地を板に固定できます。
布目がまっすぐになるよう貼り、板と生地の間の空気を抜いてシボを平らかに落ち着かせ、生地の端(耳)が浮かないように整えます。これは「地こすり」というもので 、伊勢型紙を傷めず綺麗に糊を置くための大事な作業です。
布を貼り終えたら、江戸小紋の真骨頂、伊勢型紙を用いた「型付け」へ。
基本の糊は「米ぬか、もち粉、お米の粉(じょうしろ)」の3種の材料を5時間蒸して作ります。型付けに使う「目のり」は基本の糊に石灰を、しごき染めに使う「地のり」は基本の糊に色定着を促す塩を加えます。
型付けに使う「目のり」
柄物の型には「ねばくてやわらかめ」の糊、縞物の型には「さく(サックリしている)くてかため」の糊が適しているそうです。
型付けの具合が見てわかりやすいよう、水洗いで落ちる顔料を入れる。
伊勢型紙の大きさは15センチほどで、長さ13メートルの生地の上に約90回、寸分違わず繰り返し糊を置く作業は、長く集中する時間を要します。
「時間が経つと糊の色が変わって一定の型付けができなくなるので、型付けは必ずその日のうちに終わらせます」
錐彫り、突彫り、
縞彫り、道具彫り
伊勢型紙の魅力を引き出す
伊勢型紙には4種類の彫り技法があり、柄ごとに専門の彫り師が担います。
錐(きり)彫り・・・半円形の刃先をくるりと回転させて穴をあける。鮫小紋、行儀、通し、霰など。
突彫り・・・伊勢型紙の中で最も古い技法。小刀を垂直に突くように彫り進める。
縞彫り(引彫り)・・・縞を彫る技法。万筋、毛万など、3cm幅内の縞筋の本数により名前が付けられている。
道具彫り・・・刃自体が花や菱、扇など型の形をしている彫刻刀で、ひと突きで彫り抜く技法。
※4技法の詳細は、店主・泉二啓太による伊勢型紙の産地レポートをぜひご覧ください。
かつてはこの4技法それぞれに、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)がいらっしゃいました。今は個人での保持者はいませんが、1993年(平成5年)に伊勢型紙技術保存会が重要無形文化財「伊勢型紙」の保持団体に認定されています。それほど伊勢型紙の技術は歴史的・文化的に価値が高いものでありながら、現在は継承者が不足し存続の危機にあります。
どちらも縞柄の型紙だが3cm幅内の縞筋の本数が異なる。
「日本の絹が貴重なように、型紙も本当に貴重なものになってしまいました」と、菊池宏美さんは伊勢型紙の産地を応援しながらもその将来を危惧されています。
「今の伊勢型紙の彫師の方は、型紙はあくまで道具だからと裏方に徹していらっしゃるのですが、私はもっと彫師の方の名前が前に出てもいいと思っているんです」
伊勢型紙「大津絵」 彫り師:六谷泰英
作り手として名前を出して、今の世の人に広く伊勢型紙に興味を持っていただき、目に触れる機会を増やせたらと仰います。
その想い通り、今回の催事で菊池さんから寄せられた作品コメントには、型紙の彫り師のお名前も添えられています。
伊勢型紙「御召十」 彫り師:今坂千秋
縞彫りの佐々木正明さん、錐彫りの六谷泰英さん、突彫りの内田勲さん、道具彫りの今坂千秋さん。師匠や姉弟子から譲り受けた型紙、当世最高峰の彫り師の方に新たに彫っていただいた型紙、どれも菊池さんの大切な仕事道具であり、「より良いものを」と挑む心を引き出してくれる存在でもあります。
伊勢型紙「美人図」 彫り師:内田勲
古い型紙を元に新たに彫りおこしていただいたもの。
「中には『彫り人知らず』の型紙もありますが、図案も彫りも素晴らしい。型紙を見たときの感動を、何とか表現したい、伝えたいという思いです」
菊池宏美さんならではの色彩
奥ゆかしさの中に漂う品格
「型付け」「しごき染め」の後、糊がついた布を蒸して色を定着。水洗いで糊を落としたら最後の仕上げ「地直し」。型付けのつなぎ目などの色むらを補正します。
色糊を置いた後、この蒸し室に入れて色を定着させる。
菊池宏美さんの作品に魅了されるファンの皆様は「菊池さんの江戸小紋の色が好き」と仰います。黒であって黒でなく、紫であって単なる紫ではない、単色染であるはずなのにたくさんの色を感じる、ニュアンスを帯びた色彩。菊池宏美さんの色選びの感性と丁寧な地直しが、たとえ古典柄であっても唯一無二の江戸小紋にしています。
地直しは自然光のもとで。弟子時代の2倍の時間をかけているそう。
藍田正雄さんはよく「菊ちゃん、『品』だよ」と仰っていたそうです。
どんなにお洒落なものであっても、表現には品格がなくてはだめだ、と。
それは作品として表現される心、ひいては人としての在り方、生き方そのものであり、藍田先生は自らの背中でそれを教えてくださったのだそうです。
繰り返し柄の単色染めの着物であるのに見る者・纏う者の心を打つのは、きっとその教えを出発点として作品が作られているからかもしれません。
牛首紬着尺 茣蓙目
9月15日(金)~17日(日)の個展では、古典柄に加え、より洒落た雰囲気で楽しんでいただける面白みのある柄・素材の江戸小紋が揃います。
菊池さんが「節のところに良い表情が出て、私は大好き」と仰る紬の江戸小紋は必見。また、以前より「発色が良く、江戸小紋には最高の絹」と褒めていただくプラチナボーイ壺糊ちりめんの作品は限定数でのご紹介です。
菊池宏美さんの「今」が染められた全21作品、ぜひお見逃しないようご覧ください。
菊池宏美展~江戸小紋の姿情~
師である藍田正雄氏の江戸小紋に魅せられ、門を叩き修行、そして独立。「心技体、この道で生きていく全てを伝授いただいた。自分の江戸小紋をつくり続けることが、今は亡き師をはじめ、出会えた方々へのご恩返しです」と語ります。
奥ゆかしさの中に漂う品格、その姿情は正に江戸小紋の真髄。
この道を歩み25年、今が正念場、その覚悟の証をご覧ください。
工芸展入選作品をはじめ、並巾、広巾着尺、九寸帯、額裏など、限定21点を一堂にご紹介いたします。