「久留米絣」の創始者・井上伝と「東芝」の創業者・田中久重の意外な繋がりとは?
福岡県久留米市とその周辺地域で生産されている織物・久留米絣。広島県の備後絣・愛媛県の伊予絣と並ぶ日本三大絣の一つで、「手括りによる絣糸を使用」「純正天然藍での染織」「なげひの手織り織機で織る」という条件を満たしているものは、重要無形文化財に指定されています。
今回はこの久留米絣と、日本を代表する電機メーカー「東芝」の創業者・田中久重との意外な関係についてご紹介。織物業界とは無縁に思える田中久重は、一体どのように久留米絣に関わっていたのでしょうか。
久留米絣の歴史
久留米絣は1800年頃、当時12~13歳だった井上伝(いのうえ でん)という少女が発案したとされています。久留米市の米屋の娘として誕生した伝は、幼い頃から木綿織りを嗜んでいましたが、ある日染料が抜けて白い斑点ができた古着に興味を持ちます。早速布をほどいてその理由を探り、そこからヒントを得て白糸を括って藍で染める技術を考案。この技術を用いて織られた織物は“加寿利(かすり)”と名づけられ、人々から“雪降り”や“霰織り”などと呼ばれて絶賛されました。そして、伝は多くの弟子を抱えるようになり、40歳の頃にその数は1000人を超え、うち400人ほどは各地に散らばって機業を開業したそうです。
その後、久留米藩の殖産興業において、久留米絣は藩財政を支える主要産業として発展しました。しかし、1877(明治10)年の西南戦争後、久留米に駐留していた兵士たちが土産物として持ち帰ろうとしたことで需要が急増。これに伴って正規の工程を踏まない粗悪品の量産が相次ぎ、一時は消費者の信頼を失うことになります。1880(明治13)年になると、これに危機を感じた有志達が信用回復に尽力し、生産者や販売者名の証票をつけるようにして規約に違反した場合は懲罰を科したり、不良品があれば交換に応じたりするなどの対策を講じました。
そして、1886(明治19)年に政府が一般生産業の発達を期して同業組合準則を発布。これによって久留米絣同業組合が発足し、高品質な久留米絣が安定して出回るようになりました。
白と紺のコントラストが美しい久留米絣は、着て洗うたびにその風合いが増していきます。さらに、耐久性に優れている上、綿ならではの肌あたりの良さや手入れのしやすさも相まって、明治時代以降は庶民の普段着として広く普及。最盛期は200万反以上もの生産数を誇ったといい、民藝運動の父として名高い柳宗悦も著書『手仕事の日本』の中で「おそらく日本のどの国の人も、これで着物を拵えたでありましょう」と述べています。
染織に宿る“本物”の美とは。民藝の提唱者・柳宗悦の軌跡を辿る着物街道の旅|知るを楽しむ
久留米絣の模様と田中久重
久留米絣の柄には、大柄・中柄・小柄・絵絣など、さまざまな種類があります。『久留米絣の歴史』を著した中村健一氏はその自著の中で、
「(久留米藩は)1845(弘化 2)年に「弘化の大倹令」を発した。藩主自ら綿を着て粗食を実行して範を示す。庶民はひそかに絹織物を着ているだけで厳しく取り締まられたため綿織物で我慢する。しかし庶民は単に紺一色の無地物や縞物では飽き足りず、いろいろな模様の入った久留米絣をより多く求めるようになったのであろう」
と、多彩な絣柄の誕生には、当時の社会的背景が起因していた可能性に言及。その様子は、奢侈禁止令で制約を受けたことで生まれた、繊細な柄の江戸小紋や絶妙な色の変化を楽しむ“四十八茶百鼠”に代表される江戸っ子の感性を彷彿とさせます。
そんな久留米絣の柄にまつわるエピソードとして、井上伝と田中久重の次のような話が残されています。
1813(文化10)年、当時26歳だった伝は、織り手として名を馳せ、多くの弟子を指導する一方、新技術の開発にも意欲的に取り組んでいました。伝は、動植物や風景などを布に織り込む“絵絣”に挑戦していましたが、試行錯誤を繰り返すもなかなか上手くいかなかったといいます。その状況を打開するために白羽の矢が立ったのが、田中久重です。
久重は久留米市出身の発明家で、からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計(万年自鳴鐘)」などを開発し、“からくり儀右衛門”や“東洋のエジソン”と呼ばれた人物です。江戸や上方でのからくり興行や、大坂・京都での実用品の開発・販売、肥前国佐賀藩の精煉方(せいれんがた)での勤務などを経て、73歳の時に、近代化が急務だった明治政府の要請を受けて上京。その2年後である1875(明治8)年には東京・銀座に工場を創設し、これが現在の「東芝」の発祥となります。
「東芝」創業者 田中久重
郷土資料. 第1歴史之部 / 久留米初等教員会(国立国会図書館デジタルコレクション)
伝から絵絣について相談を受けた当時、久重は彼女より一回り近く年下の15歳でした。伝は久留米絣の織り手として有名だったのは言わずもがなですが、久重もまた、わずか9歳で紐の細工によって鍵がかかる「開かずの硯箱」を制作し、すでに“発明少年”として知られていました。そのため、以前から二人に交流があったわけではなかったものの、お互いの存在は認識していたようです。
久重は絵絣に興味を示し、機の構造や織り方について何度も伝に質問しながら思考を巡らせ、数日後「板締め技法」と呼ばれる技術を考案します。板面に絵の模様を彫刻して、織り糸をその板に張り、もう1枚の板で挟んでかたく締めて染めることで絵模様を織り出すという仕組みでした。その後、伝が試作を繰り返し、ようやく花柄の絣を織ることに成功。さらに、久重は機の改良や糸の組み方なども伝に教えたと言います。残念ながらこの技法は現存していないようですが、久留米絣発展の一端になったことは言うまでもありません。その後、1839(天保10)年頃に大塚太蔵(おおつか たぞう)が、現代にも残っている絵糸台を用いた伝統的な絵絣の技法を、さらに1846(弘化3)年頃には牛島ノシが緻密な小絣を考案しています。
伝と久重の交流が以降も続いていたのかはわかりませんが、伝は久留米絣の織り手として、久重は発明家・実業家として大成します。一見全く違う世界を生きていると思われる二人を結びつけたのは、“ものづくり”に対する熱い想いではないでしょうか。作り手としてのプライドと探求心によって分野の垣根を超える共創を叶えた彼らの姿勢は、現代のものづくりを考える上でのヒントになるように思えます。
久留米絣の名家・松枝家の軌跡を辿る
銀座もとじでは、2022年3月18日(金)より「松枝家の久留米絣~伝統と伝承の道~」を開催。2020年夏に永眠された久留米絣の名家・松枝家5代目当主・松枝哲哉氏と、同じく作家として活躍する妻・小夜子氏と長男・崇弘氏の珠玉の作品群が集結します。伝や久重をはじめとする作り手たちを経て現代まで受け継がれ、今もたゆまぬ進化を続ける至高の技術を、ぜひ間近でご堪能ください。
【参考】
・久留米絣協同組合|重要無形文化財「久留米かすり」の歴史と伝統
・『井上伝と田中久重』公益財団法人 久留米観光コンベンション国際交流協会
・東芝未来科学館:からくり儀右衛門の発明人生 - 田中久重ものがたり
・『久留米絣の歴史』中村健一
・『福岡県繊維産業の歴史と現状』竹内正俊
久留米絣についてはこちらもご覧ください。
多摩美術大学教授・外舘和子先生に取材・執筆いただいた「和織物語」を公開しています。