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「地方行政」連載(4)故郷の大島紬を未来に! 地域再生への大胆発想|メディア掲載

時事通信社から発行される、地方自治体・行政関係者向けの専門誌「地方行政」にて、「銀座から、新しい『着物時代』を創り出す」として、弊社の取り組みを全4回にわたり連載いただきました。ぜひご覧ください。

※時事通信社様のご厚意により掲載誌面の全文を公開しております。

(4)故郷の大島紬を未来に! 地域再生への大胆発想

《2020年3月16日号》

 鹿児島県・奄美大島出身の私にとって、2003年は、終戦直後より米国の統治下にあった奄美大島が本土復帰して50年の、記念すべき年でした。しかし、復帰後の奄美大島の経済を支えてきた本場大島紬を取り巻く環境は、すでに楽観できる状況ではありませんでした。

大島紬がきっかけで呉服の世界に

 私が生まれ育ったのは奄美大島の龍郷町という所です。龍郷柄と名付けられた古典模様もある、古くから大島紬の製造が盛んな土地で、小さい頃から集落を歩いていると、ガッタンコガッタンコと機を織る音が家々から聞こえ、大島紬を織る女性たちは、公務員より収入を得られたほど競い合って紬を織っていました。日本中で大島紬は売れに売れ、島は大島紬景気で沸いていました。
 しかし、この好景気に、私は危機感を覚えていました。呉服業の修業をしていた昭和40年代、私は時折島に帰って織元を覗いていたのですが、その儲かりようは尋常ならざるものがありました。最盛期は、大島紬の卸売り相場というものがあり、問屋さんが買いに来ると、午前中と午後の価格が変動しているくらい、頻繁に売買されていました。
 織元の社長たちは左うちわです。朝は喫茶店に行って新聞を読み、コーヒーを飲んでは碁を打ちながら、お昼が来ればその日の仕事は終わりです。私は、彼らの仕事ぶりを見て、こんな楽な商売はあり得ない、好景気も長く続くはずがない、と思っていました。当時、高校時代の仲間の3分の1が家業である大島紬の織元を継いでいましたが、今はもうほとんど残っていません。
 修業時代、独立時代、と時間が経過するとともに、大島紬を取り巻く状況は、目に見えて悪化していきました。故郷の産業の凋落はつらいことでした。私がこの仕事を始めたきっかけが父の形見の大島紬だったことも、つらい気持ちに拍車を掛けました。
 前々回(2月3日号)でもお話ししましたが、私は箱根駅伝の選手を目指して、東京の大学に進学しました。しかし、入学して数カ月で腰を痛めてしまい、手術を余儀なくされ、2カ月の入院、約1年にわたる療養生活を強いられました。大きな夢を抱いて東京に出て来たはずなのに、体の故障が原因で早々に挫折してしまった私は、大学にも行かなくなりました。部屋にこもって友人とも会わず悶々と過ごしていたある日、母が島を出る時にかばんに忍ばせておいてくれた大島紬の着物を思い出し、何気なく羽織ったのです。それは、私が高校1年生の時に亡くなった父の形見でした。その時、父が「陸上で果たせなかった夢を着物で叶かなえてみてはどうか」と語り掛けてくれたように感じたのです。
 私より先に東京に出ていた兄が、大島紬の行商をしていたこともあり、私も着物の世界で生きていこうと決意し、21歳で日本橋の呉服問屋に入り
ました。30歳で独立することを目標に、つらいことがあるたびに初心に返り、父の大島紬が導いた縁を思い出していました。
 そんなわけで、私にとっての大島紬は、故郷の織物であること以上に、この道に進むきっかけであり、心の支えでもあった恩人のような存在です。その大島紬が危機的状況にある今、なんとしても恩返しをしなければと思ったのです。私ができることは何なのか、かなり悩みました。


写真 奄美大島から夢を描いて上京

戦後に大ブームを起こした大島紬

 ここで、大島紬について少し説明をしましょう。大島紬の名前は、着物を着ない人でも聞いたことがあるくらい、呉服界を代表するブランド紬です。泥染めの黒褐色地または藍染めの紺地に、細かい絣により模様を表現。鹿児島県の奄美大島を中心に、奄美群島や鹿児島市内でも織られています。
 大島紬は分業体制による製作が特徴で、図案師、締め機師(絣糸作り)、泥染め師(糸染め)、織り手、と各分野の熟練された職人による難度の高い技術のリレーで成り立っています。締め機とは、大島紬独特の絣作りの技術で、この方法を明治時代に導入したことにより、精巧で繊細な絣が作られるようになりました。締め機は、絣の精度を高めるとともに、大量に絣糸を作り出し、大島紬を大量生産するための技術でもありました。
 大島紬は高度成長期の着物ブームに乗って、大量に生産され、多くの人が我も我もと求めました。この時代の好景気の様子を、修業時代の私は見ていたのです。しかし、需要に合わせて生産反数を増やした結果、市場に大島紬が溢れ、また、大島紬のブランド名を借りた粗悪品も出回り、結果として大島紬の存在感を弱めることになっていったのです。オイルショックを経て着物離れが進み、次第に作っても売れない状況に陥ります。売れなければ織元は立ち行かなくなり、また、後継者も続きません。そうこうしているうちに、産地は弱体化していったのです。
 何とか故郷を元気づけたいと、私は島に通い続けました。そのうちに気付いたのは、私が店を持つ東京の銀座と、南海にある奄美大島の環境の違いでした。島にこもってモノづくりをしている奄美の人たちは、今の時代に求められているものとズレがあり、どんなデザインの着物を作ったらいいのかイメージできないのです。その結果、好景気の時にヒットした図案をいまだに焼き直しながら大島紬を作っているという現実がありました。都会で暮らす着物ユーザーの声が、彼らの耳には届いていないのです。
 これはきっと大島紬に限ったことではなく、多くの産地で同じような状況に陥っていたと思います。呉服を取り巻く環境は、ユーザーと乖離していることに気付くことなく、ライフスタイルの急激な変化による着物離れだと思い込み、長く停滞していたのです。戦後の高度成長期に経験した景気があまりに良過ぎたことも後を引いていました。急激な着物離れで陥った業界不況との落差があまりに大きくて、身動きがとれない、そんな状態でした。イケイケどんどんで拡大することの怖さを、私は大島紬を通してつくづく感じることになったのです。呉服に限らず、伝統工芸の産地の多くは、今もその後遺症を引きずっているのではないでしょうか。
 だからといって、衰退する姿をただ眺めているわけにはいきません。産地の衰退は、私たち呉服店の衰退に直結するのです。

人気投票で作り手を激励

 私がすべきことを考えた末に、思い付いたのが大島紬の人気投票でした。
 奄美大島の本土復帰50年を迎える2003年12月25日を見据え、12月5日から20日間、私が選んだ大島紬20点を店内に展示し、「あなたが選ぶ大島紬展」を開催することにしたのです。会場は、呉服業界初の織物専門店として注目された「銀座もとじ 和織」です。大島紬には、「和織」の主力商品として頑張ってもらいたいという思いもありました。
 展示に際しては、大島紬の製作に関わったすべての方の名前を記載することにしました。図案師、締め機師、泥染め師、織り手。大島紬の分業体制を支えている作り手4人の一人ひとりにスポットを当てるのです。そして、会期中に来店してくださったお客さまには「どの大島紬を着てみたいか」という視点で、20作品の中の1点に投票していただきました。この結果を12月25日のクリスマスに集計し、最も投票の多かった大島紬を「最優秀賞」としました。もちろん、これだけで終わりません。「最優秀賞」に選ばれた紬に投票したお客さまの中から抽選で1人を選び、その大島紬をクリスマスプレゼントとして贈ります。奄美大島の大切な記念日とクリスマスが重なっていることは、嬉しい偶然でした。
 人気投票を通じて私が何より実現させたかったのは、作り手の表彰でした。年が明けるとすぐに、私は奄美大島に飛びました。そして、1位の「最優秀賞」と2位、3位の作品を手掛けた作り手各4人、計12人を表彰し、金一封を授与したのです。
 作り手の皆さんの喜びようは、今も忘れられません。彼らは皆裏方ですから、表彰とは無縁の人生でした。「これまで仕事を続けてきて、表彰なんて初めてですよ」という言葉に、こうした人たちを元気づけないと大島紬の未来はない、とつくづく思いました。
 そのほかの作品についても、投票結果をフィードバックして「今、『銀座もとじ 和織』に来店するお客さまが着てみたい着物」を作り手たちに伝え、次の製作目標にしてもらいました。
 高度な技術を守り伝えるためにも、今の時代に魅力的なモノづくりをしなければいけないことを、この企画を通して、奄美の人たちに伝えたかったのです。以来、この人気投票は「あなたが選ぶ大島紬展」として12月の恒例企画となりました。

銀座に大島紬の専門店をオープン

 2010年10月、奄美大島は集中豪雨による大きな被害を受けました。泥大島の糸を染める泥田をはじめ、作り手も被災してしまいます。これは、生産量が落ち続ける産地にとってさらなる痛手でした。私も大きなショックを受け、すぐに島に帰り、状況を見て回りました。このままでは、産地がますます疲弊してしまいます。何とか故郷を元気づけなければ、と思いました。
 物事にはタイミングがありますよね。今ならできる、また今でなければ「大島紬」をこの世に残す大英断はできないと考えました。大島紬は私にとっては故郷の象徴であり、また「着物の世界」に導いてくれた大切な織物なのです。
 災害によって仕事から離れてしまう職人が多いことは、他の産地でもよく耳にします。職人は、一度モノづくりから離れたら、二度と戻って来ることはありません。この危機的な時にこそ、故郷の大島紬を支えなければ受け継がれてきた高い技術が途絶えてしまいます。そこで私は、「大島紬の復活と可能性」をテーマに、大島紬の専門店を新たにつくることにしたのです。
 大島紬を育んだ風土や歴史と、改めて製造工程や素材を見直し、現代に息づき、必要とされる大島紬として「オリジナル大島紬」「銀座もとじセレクト大島紬」「伝統を守る大島紬」の3本柱で、奄美大島と大島紬の魅力を発信していこうと考えました。また、大島紬の作り手たちが今の風を肌で感じる場、自分の作品を発表できる場として活用できる空間としても。
 余談ですが、島で大島紬を作っている人たちは内向きになりがちです。若者でも、「問屋さんが買いに来ない、誰が買いに来ない」と、受け身の話をしがちです。そんなことではダメだと話しても、その真意が理解できないのです。そこで私は、他の元気な産地に若者を連れて行くことにしました。奄美大島の青年部を沖縄県の久米島に連れて行き、意見交換会をしたのです。これが刺激となって、彼らの考え方が変わりました。一石を投じることで、若者たちの中にやる気が芽生えたんですね。だからこそ、産地に刺激を与え続けなければいけない。そのための「銀座もとじ 大島紬」でもあるのです。
 構想から2年後の2012年2月、大島紬専門店として「銀座もとじ 大島紬」をオープンさせました。2016年11月には開店5周年を目前に、地元の新聞社が大島紬の特集号を作ってくれたのです。広告も集まりました。地元の織元や京都の問屋も協力してくれました。

帝国ホテルを大島紬で埋め尽くす

 2017年2月には、「銀座もとじ 大島紬」開店5周年を記念して、”ドレスコードは大島紬”と題し、帝国ホテルでパーティーを開催しました。360人もの大島紬を着た人たちが一堂に集まる前代未聞の光景に、参加した呉服業界の人たちも「こんなにたくさんの大島紬を一度に見たのは初めてだ」と驚くほどでした。私も同じ気持ちで、帝国ホテルの会場が、まるで大島紬の美術館のようだと思いました。島から飛んで来た大島紬の作り手たちは、大島紬一色の会場に大感激。元ちとせさんをはじめ同郷のミュージシャンがサプライズでお祝いに駆け付けて花を添えてくださり、本当に夢のような一夜となりました。
 5年という歳月は一つの節目でもありました。同年の9月に、私は「銀座もとじ 大島紬」をリニューアルオープンさせることにしました。目玉は、「銀座生まれの大島紬」。店内に大島紬の機を置き、織り手が実際に織っているのを見ることができる、銀座から大島紬を発信する店として進化させました。
 実は、銀座1丁目に店があった時代に、やがて着物業界も直売りするだろうと予測し、「もとじ織物」をやろうと試みたことがありました。店の4階に機を置き、商品作りをしたのですが、この試みはちょっと早過ぎました。が、その発想をベースとして、いつかはこの大都会のど真ん中に大島紬の機の音を鳴り響かせたいと思い描き続けていました。そうして銀座に、大島紬を見て、聞いて、触れて、心で感じていただける場を実現させることができました。
 最盛期には年間30万反を生産していた大島紬ですが、現在は5000反を切っています。作り手の高齢化や後継者不足は今なお大きな課題です。それでも、一手、また一手と、新しい試みを世に問いながら、私は大島紬の魅力を伝えていきたいと思っています。東京で作り手との架け橋となり、故郷の奄美大島と大島紬の力になりたいと思います。


写真 大島紬の文化発信基地

(1)国産絹「プラチナボーイ」で作り手革命

(2)「銀座の柳染め」で地域貢献活動を

(3)前代未聞「男の着物」専門店で産地も業界も活性化

(4)故郷の大島紬を未来に!地域再生への大胆発想

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