伝統と近代化の狭間で、和服と洋服が混在する独特の衣服文化が育まれた明治・大正・昭和初期の日本。軍服や制服など、公の場で着用するものが洋服に移行していく一方で、普段着はまだまだ男女問わず多くの人々が和服でした。では、具体的にどのように普段着としての和服を楽しんでいたのでしょうか?今回は男性の和装にフォーカスを当て、当時のオシャレなコーディネートのポイントをまとめてみました。
1.大島紬を対でそろえるのが一人前!?
男柄の最高峰「西郷柄」の大島紬
“「男には大島が一番よく似合ってよ。貴方も、是非大島をお買いなさい、夫(それ) も片々じゃ駄目だわ。何(ど)うしても羽織と、着物とを揃えなけりゃ。是非お買いなさいよ、一疋(※1)買うといいんだから、今年の秋迄には是非お買いなさいよ。男は大島に限るわ。」”
これは菊池寛の著書『大島が出来る話』で描かれている、主人公・譲吉とその妻とのやり取りの一節です。明治20年代~昭和初期にかけて、大島紬が多くの男性の羨望の的だったのだとか。着心地がよく丈夫でシワにならない上、シックな色柄で好みに左右されない点が支持されていたといわれています。しかし、上等品であったため誰もが買えるわけではなく、特に羽織と着物の対、いわゆるアンサンブルで揃えた大島紬を着ることは、男性にとってのステータスでした。同書の中では、
“「何だ! 大島を着て居るじゃないか。」と、譲吉が思わず嘆賞の言葉を洩すと、杉野は、「何(ど)うだ、全盛だろう。」と、一寸得意そうな顔をした。そして譲吉を可なりに羨しがらせた。”
と、譲吉が大島紬を対で着ていた同窓生・杉野を羨むシーンも描かれています。大島紬のほかには、絹物では結城紬や銘仙が、木綿では双子縞(明治時代)や久留米絣(大正時代~昭和初期)などが人気だったそうです。
※1 一疋とは2反分のこと。同じ柄でアンサンブル(着物と羽織のセット)を仕立てるのがステイタスだった。
2.外套は1枚でオシャレが決まる冬の必需品
明治時代以降、洋装・和装問わず一気に男性の間に普及したのが外套です。和装ではインバネスコートや二重廻し、トンビなどが流行。「男は二重廻しを着ない者はなく、寒さしのぎとボロ隠しの一挙両得だと誰も彼も買い求めている」(『報知』明治29年1月29日)と報じる新聞もあったほど。大正時代頃になると、襟に毛皮がついたものも現れます。これらは主に“お大尽”と呼ばれる富裕層を中心に着用されていたようで、番頭や小商人、職人などは、比較的軽やかな着心地の角袖やもじり袖の外套を羽織っていたようです。
さらにユニークなものとしては、赤ゲットと呼ばれる赤いマント風の羽織ものがありました。これは、明治時代に田舎から上京した人が外套代わりに羽織った赤いブランケットのことで、オシャレというよりは田舎者の象徴としてみなされていたようです。
3.子どもから大人までみんな帽子を被っていた!?
明治~昭和初期において、帽子は男性の必需品のひとつでした。明治時代初期の頃はザンギリ頭に抵抗のあった男性たちが頭を隠すために被ることも多かったようですが、次第に身だしなみに欠かせないアイテムとして定着。学生から大人まで多くの男性が挙って被っていました。特に戦前期のホワイトカラーの男性は帽子へのこだわりが強く、隣の家へ電話を借りに行くときも被っていたのだとか。
『歴史写真. 大正7年8月號』 / 国立国会図書館
一口に帽子といってもさまざまな種類がありますが、明治初期頃には山高帽、大正期以降は中折れ帽やハンチングを和服にあわせている姿がよく見受けられます。
『東京風俗志. 中』 / 国立国会図書館
夏になると、カンカン帽やパナマ帽が主流に。カンカン帽は色が薄いため汚れが目立ちやすく、値段も安かったため毎年買い替える人も多かったのだそう。一方のパナマ帽はもともとエクアドル原住民の被り物だったもので、19世紀末に世界的に流行。日本でも高価でオシャレな帽子として注目を集め、夏目漱石が『吾輩は猫である』の原稿料で念願のパナマ帽を購入したエピソードも残されています。
4.ステッキは紳士の象徴
ステッキというと、今では足の悪い年配の方が使う歩行用の補助具というイメージを持っている方も少なくないかもしれません。けれども、明治~昭和初期にかけてのステッキは、品の良さ演出するファッションアイテムとして、紳士に欠かせないものでした。和装・洋装問わず取り入れられ、芥川龍之介や吉田茂元首相等をはじめとした著名人たちも愛用者として知られています。
『高橋是清自伝』 / 国立国会図書館
余談ですが、一時期鞘の部分に刀身を仕込んだ護身用のステッキがあったことをご存じでしょうか?廃刀令以降、男子が何の刃物も持たずに外に出るのは心もとないという理由から、一部の元武士の間で使われていたそうです。現代の感覚だとかなり物騒な道具ですが、それだけ刀は武士にとって精神の拠り所のようなものだったのでしょう。
5.和服には腕時計ではなく懐中時計
現代の男性にとって、腕時計はメジャーなファッションアイテムのひとつですが、明治~昭和初期においては懐中時計がその役割を果たしていました。日本では明治6年に太陽暦が導入されて24時間制になり、柱時計に関しては明治20年頃には田舎にまで普及していたといいます。しかし、携帯用の懐中時計は富裕層を中心とした一部の人々に限られており、男性にとっての憧れでもあったようです。
『時計読本』 / 国立国会図書館
和服の場合は、帯に挟んだり懐に入れたりして持ち歩いていましたが、袂に入れる人も多かったため“袂時計”という呼び方もされていました。 腕時計は、1910年代以降にスイスでの技術発展に伴って一気に世界中に広まり、日本にも入ってきていましたが、純日本趣味の人々は“着物の袖先にブレスレットの類は不調和”という考えがあり、和服の時計といえば懐中時計だったようです。
このように、明治・大正・昭和初期の男性は、和服に西洋風の小物をさり気なく組み合わせ、ノスタルジーとトレンドが調和した粋な和装を楽しんでいました。そんな当時の男性のセンスに学びつつ、ぜひあなたも普段着としての和服を取り入れて、新たなオシャレの扉を開いてみてはいかがでしょうか?
【参考資料】
・『日本人のすがたと暮らし 明治・大正・昭和前期の身装』大丸弘・高橋晴子(三元社)
・『服装の歴史』高田倭男(中央公論社)
・『日本衣服史』増田美子(吉川弘文館)
・『大島が出来る話』菊池寛
・『3.帽子の変遷』モーレン鈴木
・双子織り/機織のご紹介(蕨双子織HP)
・夏目漱石、『吾輩は猫である』の原稿料で念願のパナマ帽を買う。【日めくり漱石/7月2日】 / サライ(小学館)
・日本で初めてステッキを持った人とは?文豪も愛したステッキの歴史(タカゲンHP)