~江戸時代中期・後期~ 初期の「大島紬」と泥染の発見
現在の「大島紬」の一般的なイメージといえば、主に泥染などの黒地にさまざまな絣模様が入ったものでしょうか。「生糸」で織られているものが主流ですので、紬といってもほっこりした感じではなく、お召しのようななめらかな光沢感があり、結城紬などと比べると薄手ですが、丈夫で着やすい織物として知られています。
江戸時代中頃にあらわれた、初期の「大島紬」は、手引きの「真綿紬糸」を用いていたので、現在の大島紬よりもほっこりした風合いがありました。また、機は「地機」で織られていたので、織り上がるまでの手間暇は大変なものでした。
「地機」とは、経糸を腰に結びつけて、人が機織の一部となって、経糸の張力を調整しながら織っていくため、独特の風合いやコシが生まれるのです。
1720年以前より奄美では「紬」が生産されていたと考えられていますが(薩摩藩が奄美の島民に「紬着用禁止令」を出したという史実が残されているところから)、その時代の紬の柄は、無地、縞、格子などで、簡単な平織りでした。1800年代に入り、奄美の言葉では"トリキリ"と呼ばれる「絣」柄が応用されるようになります。
地機(本場奄美大島紬会館 資料室)
2~3種類の絣を組み合わせて簡単な模様を作る程度のものでしたが、当時としては高級品であり、奄美の黒糖とともに将軍家への献上品、交易品として、盛んに織られていました。
「紬」は、この頃、日本各地で織られていたと考えられますが、奄美大島においても織られていた「紬」は、どのような特徴を得て「大島紬」として知られるようになったのでしょうか。
幕末、奄美大島に流された薩摩藩士 名越左源太(なごやさげんた)が、5年間過ごした島での見聞録をまとめた名著「南島雑話(なんとうざつわ)」には、「紬を上とし、木綿、苧麻、芭蕉布など、島婦これを織る」と記されています。絣、縞、格子などの紋様が地機で織られている絵図が描かれています。
「南島雑話」より 左:地機で布を織る絵 / 右:絣文様 二重ダスキ、東ダスキ、ツブツクワのタスキなど
染色法についても、「田または溝河の腐りたるにつけ、何篇となく染めるときは、ネズミ色に付く、泥の腐りたるをニチャと云う」 とあります。この地域には、150万年もの遥か昔から琉球列島付近の海底に鉄分を豊富に含む粘土地層の泥が分布していることが最近の研究で判明しており、すでに幕末には粘りある泥によって、糸が黒く染まることが何らかの形で発見されていたと考えられます。
腐った泥"と表現されていますが、それは養分をたっぷり含む大変キメの細かい贅沢な泥です。
泥染は八丈島や久米島などでも行われていますが、やはり奄美大島の「泥染」は、全国的にも最も良く知られているのではないでしょうか。
「泥染」の発見により、奄美大島で織られていた「紬」は、奄美大島ならではのひとつの大きな特徴を得て、「大島紬」として全国的に知られるようになり、現在に至ります。
黒糖とともに、「大島紬」を上納品として納める義務が島の人々に課されていた歴史は、江戸初期から明治初期まで続きます。
献上品であった「大島紬」、明治時代に入ると、世の中の移り変わりとともに、大きな変化を遂げて行きます。