明治中期、1890年(明治23年)には、調整針を用いて細かな絣模様を正確に合わせる技法が喜界島出身の浜上アイ女史によって考案され、大島紬の品質は一段と向上します。
※2匹以上の蚕が共同して作った繭を玉繭といい、玉繭から繰糸した糸が「玉糸」。生糸より太く節があるが、丈夫で野趣のある織物ができる。松元氏の尽力により、名古屋の豊橋地区より安定的に玉糸を仕入れることができた。
大島紬の市場開拓に長年に渡り
尽力し貢献した、松元弥市郎氏。
尽力し貢献した、松元弥市郎氏。
松元弥市郎氏の甥にあたる
故松元幸也氏の妻 松元タヅ子さん
故松元幸也氏の妻 松元タヅ子さん
松元弥一郎氏が生まれ育った家
(笠利町) 現 松元タヅ子さん宅
(笠利町) 現 松元タヅ子さん宅
1897年(明治30年)頃には、織機が改善され、腰を使って織る「地機」から「高機」 に切り替わり、生産能率が向上します。
そして、1899年(明治32年)頃には、大島紬は、第一期黄金時代といわれる活況を呈し、奄美群島の経済を支える一大産業に成長していきます。
高機(腰板に腰掛けて織る手織り機)