2012年10月4日(木)〜8日(月)まで、銀座もとじにて、「大島紬 秋の新作展『織綺麗〜うりきょらさ〜』」を開催させていただきました。うりきょらさ」とは、奄美の方言で「織綺麗」を意味します。奄美大島に取材に出向いた際に、現地で聴いた島唄のタイトルがそれでした。
「島へ就職」
松井さんは、九州は熊本県ご出身ですが、社会人になってからずっと奄美大島にお住まいです。現在のお勤め先である南海日日新聞に入社を決められる前には、東京の会社に就職が決まっていました。けれど、小学生のある夏にお父様の転勤の関係で過ごした与論島の島の光景と強烈な海の色が忘れられず、
奄美大島の波止場で海を見ながら、さて、しばらくのんびり島をめぐって、塾の講師でもして暮らそうか、などと考えを巡らせていたところ、近くを歩いていたおじいさんに「何をしてるんだ?これからどうするんだ? 」と声をかけられます。
島が歩んだ歴史
現在、奄美大島といえば、「大島紬」が有名ですが、大島紬はそれ単体で生まれたわけではなく、さまざまな地理的要因や島が歩んだ歴史が関係しています。 奄美大島は、鹿児島と沖縄の真ん中に位置し、両方の支配を受けてきた歴史があります。そのはるか昔、7世紀ごろの遺跡からは、大量の夜光貝が出土しています。貝の製造や出荷など貝産物による本土との交易を示す遺跡です。貝は、先史時代から大量にあり、それらをアクセサリーや食器などに加工して本土に出荷し、島々と本土を結ぶルート、“貝の道”が出来ていました。 11世紀から14世紀ごろには、奄美諸島の一つ、徳之島(とくのしま)の伊仙町付近に大規模な窯跡「カムイヤキ窯跡群」が発見されます。出土した陶器の多くは、それまで生産地不明とされていた類須恵器(るいすえき)で、南九州から奄美・沖縄・八重山に至る約1000km以上にも渡って流通していたそうです。 南西諸島で大量に出土されたカムイヤキは、最近になって、徳之島で焼かれていたこと、海賊をまとめる政治力が徳之島にあり、焼き物を中心とした小さな国家があったことが分かってきました。やがて、焼き物を中心として国家を束ねる政治力とその手法は、琉球へとつながり、琉球王国という国家を形成し、中国とも交易を図って栄えて行くことにつながったとする見方も強まっているそうです。
1609年に奄美の島々は薩摩藩の支配下におかれます。黒糖の製糖の技術が普及していた奄美大島では、島民が黒糖作りを命じられ、それらを租税としてすべて薩摩藩に納めるという厳しい義務を課せられるようになりました。奄美の黒糖による本土との取引によって、薩摩藩は財政を潤わせていました。
現代においても斬新なデザイン性 「龍郷柄」「秋名バラ柄」
この日、店内にも大島紬の龍郷柄の反物がディスプレイされており、また龍郷柄をお召しのお客様もご来店くださっていました。 「龍郷柄というのは、実は、100年間変わらず同じ柄なのです。例えて言えば、着物の『ルイ・ヴィトン』ですね(笑)。秋名バラ柄も同じく、古くからある柄です。」 「3年前にフランスの見本市に龍郷柄や秋名バラ柄の大島紬を出品したところ、大島紬の柄の中でもっとも人気があったのが「秋名バラ柄」だったそうです。100年以上の昔に生まれた柄でも、フランス人にとって、新鮮で斬新なデザイン性と写り、またそれを生み出す技術の高さが理解されたのだと思います。」と松井さん。ネリヤカナヤ
沖縄では、「ニライカナイ」といいますが、奄美の方言では、「ネリヤカナヤ」と言われます。海の彼方に楽園があり、人間に豊穣や幸福をもたらす神々がいるという伝承・信仰があり、人であれ、物であれ、神様であれ、何であれ、海から来るもの、外から来るものはみんな大事にしたのです。 たとえば、天然痘という外から来た恐ろしい病でさえも、島の人たちは、「ちゅらさ(綺麗)病」という表現をし、汚れたイメージにはしなかったといいます。人々を苦しめる恐ろしい病に対してもそのような言葉を用いる、というところは常に外来のものを大事に扱う島の特徴から来るものといえます。「シマ」と「島」と「しま」
奄美大島には、「シマ」と「島」と「しま」があります。それぞれ同じ<しま>でも、異なる意味を持ちます。
カタカナの「シマ」とは・・・集落を意味します。集落とは、奄美大島の村々のような、ある地域を単位としたコミュニティーのことです。