釜我敏子さんと「型絵染」の出会い
冬空の下、冴えた赤色の山茶花や南天の実が、命いっぱいに膨らんでいます。縁側の向こう、型絵染作家の釜我敏子さんの日々を見つめてきた庭景色に、釜我さんのお人柄を反映したような、ほっこりと暖かな陽射しが差しています。福岡空港から福岡市を出てほど近く、福岡県春日市ちくし台に釜我敏子さんの工房はあります。 釜我敏子さんは、高校をご卒業後にお母様の薦めで習い始めたろうけつ染めをきっかけに、自らの手でものをつくることの楽しさに目覚めます。
「型絵染(かたえぞめ)」とは……
「型絵染(かたえぞめ)」とは、染色工芸家の芹沢銈介(せりざわけいすけ)氏が、1956年に人間国宝に認定された際に、室町時代末期から続く、日本の伝統的な染色技法のひとつである「型染(かたぞめ)」と区別するためにあらたに生まれた言葉です。 1895年、静岡市の呉服商の家に生まれた芹沢氏は、東京高等工業学校(現 東京工業大学)の工業図案科を卒業後、図案指導や商業デザインなどに携わる一方で、染色の道にも興味を抱いていました。
そんな折、民芸運動の父 柳宗悦(やなぎむねよし)氏の論文「工藝の道」を読み、「工芸の本道初めて眼前に拓けし思いあり」というほどにその思想に感銘を受けます。 その後、沖縄の紅型に出会い、その紋様美と色彩に圧倒的に魅了され、「型染」の研究を始めます。1939年には、柳宗悦ほか、民芸運動に携わっていた、陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らとともに沖縄に渡り、そこで、衰微しながらも細々と続けられていた「紅型」の技法を徹底的に習得していきます。そして、自ら下絵を描き、型の紋様をデザインし、型を彫り、糊置きから染めまで、といったそれまで分業によった制作工程を一人でこなす、独自の「型染」の制作方法を確立していったのです。
芹沢銈介氏が確立していった技法は、伝統的な技法に基づきながらも、それまでの「型染(かたぞめ)」の制作方法とは異なり、全行程を一貫して自ら制作を行うことにより、作風にも感性の羽を自由に広げることができ、それまでにない個性ある豊かな文様表現がなされるようになりました。
芹沢氏につづいた、偉大な作家たちの活躍
芹沢氏につづいて、京都出身の稲垣稔次郎(いながきとしじろう)氏が、登場します。松坂屋京都支店の友禅の図案部に長年勤務した後、国画会で陶芸の人間国宝 富本憲吉氏にその素質を見出されます。その知遇を得て、富本憲吉氏を中心として工芸作家らとともに「新匠美術工芸会」の発足に参加し、その頃から、友禅に代わって、「型絵染」の作品を手掛けるようになりました。 稲垣稔次郎氏の手掛ける作品は、桃山・江戸時代の小袖を基本としながら、地元である京都の風物や自然をデザインに取り入れた、独自の創作性の型絵染で人々を魅了します。展覧会への出品作品は、次々と受賞を重ね、その才能を遺憾無く発揮し続けた稲垣氏、1962年には、「型絵染」の人間国宝に認定されます。続いて、鎌倉芳太郎氏が、沖縄女子師範学校の教師として沖縄に赴任し、当時、衰微しつつあった琉球王家の伝統的な染色技法「紅型」を深く研究しつづけ、1973年には、「型絵染」の人間国宝に認定されます。
戦後、それまでの長年の確かな研究や資料収集の成果をもとに鎌倉氏は、「紅型」の再興のために染色作家として歩み始める中で、「紅型」の伝統技法に基づきながら、独自の色彩感覚と創作性を加味した「型絵染」の作品を生み出していきました。
「型絵染」の作家としては、その他に、友禅染めの糊置き業を営む伊砂藤太郎氏の長男として生まれた伊砂利彦氏、そして弟の伊砂久二雄氏は、ともに稲垣稔次郎氏に師事し、それぞれ独創的で芸術性あふれる型絵染作品を世に送り出しました。 また、のちに鍋島更紗を復元し「木版摺更紗」として作風を確立された鈴田照次氏も、富本憲吉氏の知遇をて、稲垣稔次郎氏に師事して型絵染の世界に入られ、素晴らしい作品を多数残されています。
複数枚の型を用いて、緻密で繊細な紋様を描く型友禅のような表現性とは異なり、「一枚型」だからこそ、限られた世界に素朴で簡潔な表現を求め、意匠性に富んだ絵画的な構図の「型絵染」の世界が、生まれたのです。