ソビエトの大地で20歳の決意
現在、京都府亀岡市に工房を構えて制作活動をされている、湯本エリ子さん。ご出身は名古屋で、お父様も友禅染めの日本工芸会正会員でいらっしゃったとのこと。ご自宅の二階が作業場という、染めの仕事が身近にある環境で学生時代を過ごされますが、高校卒業後は一般企業に就職。しかし会社勤めに馴染めず、将来に悩んでいた20歳の頃に転機が訪れます。 名古屋で開催されていた工芸展にふらりと足を運んだ湯本さんは、染色でこんな表現ができるのかと、新鮮な驚きに心が踊ります。お父様の染めのお仕事は伝統柄がほとんどで、会場に並ぶ作品は湯本さんがそれまで目にしてきたものとは全く違うものだったのです。 そしてまた、悩める20歳の湯本さんは、大胆にも一カ月間の休暇願いを提出し旧ソビエトへ。広い空と大地、雄大なネヴァ川の流れ、大自然のおおらかさに気持ちを救われ、ある決意が芽生えます。 ―この自然こそがすべての源。この大自然の、命の輝きを表現する仕事をして生きていこう。 湯本エリ子さんの未来への道が開けた瞬間でした。師・山科春宣氏から学んだ「空間」の大切さ
染色の道へ進むと定めた湯本さんは、さっそくお父様に相談し、京友禅の師・山科春宣氏を紹介され弟子入りします。初代・山科春宣氏は、京都壬生寺の大念仏狂言古代衣裳の復元を任され、後には「勲七等青色桐葉章」を受賞されるなど、国内の工芸染色の一人者として活躍されていらっしゃいました。湯本さんは師・山科氏のもとで、下絵や糸目糊をはじめとした技術全般と「ものづくりへの姿勢」を基礎から学ばれ、ご結婚もされながら、1988年に独立されるまでの約15年半を過ごされます。 山科氏の教えとして心に強く刻まれているのは「空間を描く」ということだといいます。ことあるごとに「空間! 空間! 絵ではなくて、先に空間を! 」と指導を受けたとのこと。現在の湯本エリ子さんの作品の特長のひとつである、一枚の訪問着から見られる伸びやかな空間性は、師匠の教えを体得された賜物なのでしょう。「存在を確かめたくて写生します」
湯本さんの作品に描かれる植物たちは、その個性を際立たせ抽象化されていますが、図案のもとはすべて丁寧な写生から生まれています。 「1粒の小さな種からひたすら育つ植物たちにうそはないです。水を得、陽をあびようと次々と枝葉を広げ、花を咲かせ、自身の重みでうなだれつつも堂々と存在しています。これはたまらない魅力です。写生は苦手ですが、存在を確かめたくて写生します」
自然豊かな京都府亀岡市で、工房の周辺を散策しながら、湯本さんは一年を通して四季の植物を見つめ写生を続けます。庭先の万両の実をスケッチしようと翌日見れば、すでに鳥たちに食べられた後。植物たちの完成された美しさに感動を覚えるとき、その「良い時」を動物たちも知っているのだと感慨深く思ったり。
瑞々しい生命力と、少しの「愛嬌」を
湯本エリ子さんの訪問着には、 大きな空間にのびのびと表現された植物たちに溢れんばかりの生命力を感じ圧倒されます。訪問着作品は工芸展へ出品されるということもあり、絵羽の着物を一枚のパネルと考えてデザインされているとのこと。
手描き友禅 訪問着 「花菖蒲」
「その対象を観た時に、瑞々しいなあ、生きているなあと思ったことを忘れないようにしつつ、構成・デザインします」
湯本さんの訪問着作品にはしばしば、花だけでなく、葉脈の浮かぶ大きな葉やたくましい枝までが描かれます。それは、表面的な美しさだけでなく、いのちの美しさを描かれようとしているからに他なりません。光合成をし、大地から水を吸い上げ、隅々まで栄養を行き渡らせて花を咲かせる、その存在の美しさを表現されているのです。
手描き友禅 訪問着 「藪椿」
一方、付け下げや帯作品では、デザインの過程で「愛嬌」のようなものを組み込むようにしていらっしゃるとのこと。作品に漂う植物の愛らしさは、お召しになった方の女性らしさを引き出してくれることでしょう。
最後に、湯本エリ子さんの作品の隅に染め抜かれている「落款」について。何の文字に見えますか? これは「エリ子」さんの「エ」をデザインしたもの。「踊るような」イメージで、専門の方に文字を作っていただいたそうです。