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昔は3歳も5歳も7歳も男女ともにお祝いしてた?七五三の意味や歴史とは|知るを楽しむ

昔は3歳も5歳も7歳も
男女ともにお祝いしてた?
七五三の意味や歴史とは

子供の成長を願う伝統行事のひとつ、七五三。
そもそもなぜ7歳と5歳と3歳にお祝いするのでしょうか。また、いつ頃から行われているものなのでしょうか?

今回は、意外と知られていない七五三の歴史をご紹介します。

子供の誕生と成長は奇跡だった

国芳国貞錦絵『七五三祝ひの圖』 / 国立国会図書館

国芳国貞錦絵『七五三祝ひの圖』 / 国立国会図書館

科学や医療技術が現代ほど発達していなかった時代、子供の誕生と健やかな成長を守ることが今より大変だったことは、想像に難くないでしょう。

では、どれくらい大変なことだったのか。その様子が垣間見れるデータがあります。『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏著)によると、江戸時代中・後期における濃尾地方の調査では、一歳未満の乳幼児の死亡率は10%台後半という結果でした。人口動態統計調査(厚生労働省)によると、2017年の乳児死亡率は1.9%となっているため、幼くして命を落としてしまう子供がどれだけ多かったかが窺えます。

さらに子供だけではありません。『歴史人口学のフロンティア』(速水融ほか編)によると、同時期の同地方の農村における女性の平均出産数は約5.8人ほどでしたが、一方で同時期の20代~40代前半の女性の死亡率が10%を超えており、男性を大きく上回っていたのだそう。大阪学院大学経済学部教授 森田健司氏は、

“20代後半の女性のうち、10人に1人以上が出産の際、あるいはそのすぐ後で、命を落としているということになる。出産数約5.8人という数字の背後に、これほど厳しい現実があったことも知っておく必要があるだろう”

と述べています。

当時の人々にとって、出産は人知を超えた神秘的なものであると同時に、今以上に命を懸けた大変なものだったのでしょう。しかし、生まれた後も、当時の技術や知識ではどうにもならない病や怪我に見舞われる可能性を大いにはらんでいます。子供が無事に生まれ、成長することは、まさに奇跡的なことだったのです。そのため、人々はさまざまな形で神仏の加護を求めました。その一部が慣習・文化となって現代まで受け継がれており、七五三もそのひとつです。

七五三の起源は平安貴族の宮中行事

地域によって異なりますが、現在では女の子が3歳と7歳、男の子は5歳に七五三を行うことが一般的です。しかし、もともとは3歳も5歳も7歳も男女問わずお祝いをしていたことはご存じでしょうか?

もともと七五三は、平安~室町時代に成立した貴族の宮中行事がルーツになっています。男女ともに3歳に髪置(かみおき)、5歳に袴着(はかまぎ)と髪削(かみそぎ)、7歳にに帯直(おびなおし)という儀式が別々に行われており、これが後に組み合わさって七五三となりました。

髪置、袴着・髪削、帯直とは、具体的にどのような儀式だったのでしょうか。

3歳:髪置

男女問わず3歳になるまでは髪を剃る習慣がありました。これは、“胎内にあったものは不浄である”という考えによるものだそうです。3歳になると、“白髪になるまで長生きするように”との願いを込めて、真綿でできた白い綿帽子を頭に置く「髪置」の儀式を行ってから、髪を伸ばし始めます。これは明治時代初期頃までは全国的に行われていたそうです。

5歳:袴着・髪削

袴着は平安時代、髪削は室町時代以降に誕生。袴着は初めて袴を着る儀式、髪削は3歳で伸ばし始めた髪をはさみで切りそろえる儀式で、男女ともに行われていました。江戸時代になると武家の間にも広まり、次第に5歳男児だけの行事として定着します。

7歳:帯直

帯解(おびとき)などとも呼ばれるもので、室町時代に貴族の間で始まり、当初は男女とも9歳に行っていたといいます。子どもを恵方(えほう)に向かって立たせて、付け紐で括る乳幼児用の着物ではなく、付け紐のない着物を着せて初めて帯を結ぶというもの。江戸時代中期頃になると、5歳男児だけが袴着・髪削を行うようになったことと関連してなのか、7歳女児だけが行うようになりました。

七五三が貴族以外にも広まったきっかけは『源氏物語』!?

貴族から始まった子どもの成長を祝う儀式は次第に武家の間にも広まり、江戸時代には現在の七五三の原型が成立したようです。
この武家社会への浸透に大きく貢献したのが、紫式部の名著『源氏物語』と言われています。これについては『子どもの着物大全』(似内惠子著)の中で次のように説明されています。

 “藤原俊成(藤原定家の父)は、「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と書き、『源氏物語』に描かれている世界や言葉の端々を知らなくては和歌はつくれない、と述べました。以降、『源氏物語』は和歌を学ぶ者の必読の書となり、さらに、政治や仏教、儒教などを学べる教養の書としても地位を確かなものにします”

『源氏物語』は、単に文学として愛されていただけでなく、教養書としても重用されていたのです。江戸時代になると、出版文化の発達で『源氏物語』や『伊勢物語』などの平安文学が市井に普及。古き良き時代の文化が見直され、幕府が端午や七夕など五節句を公的な祝日として制定しました。その流れと同じくして、七五三は5代将軍綱吉が長男・徳松の健康祈願を11月15日に行い、これが七五三の日が定められた由来だといわれています。その後武家から町人、そして全国へ広まっていきました。

源氏物語五十四帖 若紫 / 国立国会図書館

源氏物語五十四帖 若紫 / 国立国会図書館

高度な科学や医療知識がなかったからこそ、先人は節目節目でお祝いの儀式を大切にしました。そして、子供が身につける着物にも古典柄や吉祥紋様などをあしらい、晴着としての華やかさだけでなく、健やかな成長への願いも込めたのです。

時代を経ても変わらない、親から子への愛情が根底となっている七五三。今後も絶えることなく受け継いでいきたい日本の伝統といえるでしょう。

ご家族の節目とともに歩む。
「銀座もとじ」が提案する
“長く愛せる七五三着物”

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七五三はもちろん、入卒式やパーティー、お茶会などにも着用可能な"長く愛せる着物"を多数ご用意。節目節目で重宝する、ご家族の歩みに寄り添った着物をご提案させていただきます。

《七五三の事例》
銀座の街を着物で巡る。
記録にも記憶にも残る七五三へ。


【参考資料】
・『子どもの着物大全』似内惠子 / 誠文堂新光社
・「7歳までは神のうち」 明治中期、農村で大人になれた子どもは10人中7人 / THE PAGE
・平成29年(2017)人口動態統計(確定数)の概況 / 厚生労働省

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