第25回:与論島の芭蕉布 菊 千代さん
<菊 千代さん プロフィール>
1926年1月24日生れ、寅年。与論島にて芭蕉布作りに励む。民具集めから与論島に「民族村」を設立。2005年に15.000語を収録した「与論方言辞典」を作成。現在に至る。
菊千代さん
出会いから5年
泉二:
お久しぶりです。初めてお目に掛かってから既に5年に成りますね。やっと私どもの和織にお越しいただける機会が出来て嬉しく思います。菊:
こちらこそ、その節は本当に遠いところにお越しいただいてありがとうございました。私の芭蕉布を見て東京の、それも銀座の呉服店の社長さんがわざわざ会いに来てくださると聞いてもうびっくりしました。泉二:
私はいいものがあれば何処へでも行くんですよ。鹿児島の知人、野崎さんが「この芭蕉布是非見てください」って持ってきて下さって、一目見て惚れました。素晴らしい出来だった。与論島で作っていると言うのにも驚きましたし。私も奄美大島出身なので親近感もありました。
店主 泉二(左)と 菊千代さん(右)
菊:
ありがとうございます。その後直ぐに野崎さんと一緒に与論島までいらしてくださって、反物を見てくださって。『いずれ銀座のお店で個展も開けるように頑張りましょう』とのお話を頂き、80歳を超えてからでも夢が叶うと思うと凄く嬉しくて、毎日が生きる励みになりました。泉二:
私どものお店にいらっしゃるお客様は皆さん勉強熱心で目が肥えていらっしゃるから。一度でも変な商品を見せたらこちらも命取りですからね。真剣勝負でこちらの目も厳しくなります。菊:
わかります。それに今回は「きものサロン」さんにも取り上げていただいて。本当に「感謝」と言う言葉では足りないくらいの感謝です。泉二:
いえいえ。それは菊さんが良い物を作っていらっしゃるから取り上げて貰えたので私は橋渡し役でしかありませんよ。菊:
本当にありがとうございます。そして今回は銀座のお店に呼んで頂いて商品も置いていただいて、貴重なチャンスを本当にありがたいです。泉二:
僕も5年前のお約束がやっと果たせるので嬉しいですよ。祖母仕込みの織り
菊:
本当は母に教わった地機で芭蕉布を織って泉二さんに納めたかったんです。一生懸命チャレンジしているんですけど、数年前に畑仕事の折に崖から落ちて複雑骨折してしまった影響で、歩くことは出来ますが、地機で腰と足を使って糸の引き加減を調整して織るのがなかなか出来なくて。自分でバランスを取っているつもりでも何処か左右の引きが違っているようで無地が綺麗に上がらないんですよ。今、少しずつ作っていますが、今回は通常の高機や長機等で織ってみました。程よい糸の引きで着易いものが作れたと思っています。泉二:
地機にチャレンジしてくださっただけでありがたいですよ。大怪我だったそうですね、その後は大丈夫ですか?菊:
はい、なんとか(笑)。もう私は慌て者でね。落ちたときは自分でも「あ! 死ぬんだ! 」って思ったほどでした。おじいさん(旦那さん)がびっくりして家族を呼びに行って、駆けつけた息子がこれまたびっくり! 救急車を呼んでくれましたが与論島では手当てが出来ずヘリで沖縄の病院に運ばれて、手術でした。最初は歩くのもまま成りませんでしたが、「貰った命、助けられた命なんだから大切にしなくちゃ。」の一心でリハビリしてここまで来ました。 でも、今降り返ってみると「泉二さんとの出会いのために神様が生かしてくれたんじゃないか」と思うんですよ。泉二:
ありがとうございます。そう言って頂くとこちらも嬉しいです。 菊さんが作ってくださる「無地の芭蕉布」はやっぱり良いんですよね。 糸取りだけでも大変だと思うのに私から「幅も大きめに反物は出来るだけ長く」なんて注文出すから大変でしたよね。菊:
私達は昔の感覚で作ってしまいますからね。5年前に泉二さんと一緒にいらした女性のスタッフの方も大きかったですよね。
菊千代さんの芭蕉布の帯
泉二:
そうでしたねえ。あの時一緒に伺った広報担当者も大きかったですね。今のお客様は背の高い方もいらっしゃるのでなるべく幅も大きい方が良いんです。ただ芭蕉布は糸作りだけでも大変だから「大きく、長く」って言うのは酷な注文だって分かるんですけどね。それでもお客様に菊さんが作る良いものを着て欲しいから。菊:
ありがとうございます。泉二さんのお気持ち分かります。芭蕉布は今高級品扱いされていますが、本来は夏の普段着ですからね。沢山の方に気軽にお召しになって欲しいと私も思います。着れば着るほど身体に馴染んで着やすいんですよ。芭蕉布の原料は奄美大島から
芭蕉を木を裂くのはとても力が入ります
泉二:
芭蕉布の原料は奄美大島から運んでいたんですよね。菊:
そうです。今では沖縄が有名ですけれど、原材料は奄美大島から運んだんですよ。私の生れた与論島でも芭蕉の木を植えて作っていました。 今では家の畑は3箇所になっていますが以前はもっとあったそうですよ。泉二:
今の芭蕉畑も広大ですよね。手入れが大変でしょう。菊:
はい。芭蕉の木は暴風雨を受けてしまうと茎に傷を受けてしまって良い繊維が採れないんですよ。でも奄美大島やこの与論島は台風のメッカみたいなところでしょう。天気予報には凄く注意していますね。泉二:
畑に入って思ったんですけど結構、背の高い芭蕉が多いですね。菊:
そうですね。泉二さんの背丈近くくらいまでは伸びてますね。途中でなるべく葉を刈り落とすんです。そうすると茎に栄養が回って良い繊維が採れるんです。3箇所の畑を回って刈り落とすと言うのは難儀ですよ。泉二:
そうでしょうね。毎日何処かの畑の芭蕉を手入れしているような状況ですものね。芭蕉の木を切り倒して繊維を取るのも凄く力の要る仕事ですよ。私も体験させてもらいましたが結構きつい。繊維を削ぐのも手間が掛かるし、神経使うし。菊:
そうですね。でも楽しんでやっています。そうじゃないと良いものは作れませんから。菊さんから孫たちへ
泉二:
菊さんの所では3代続けて芭蕉布を織っていらっしゃるんですよね。菊:
はい。私で3代ですけど、昔は自給自足で芭蕉布は普段着でしたから何処の家でも作っていましたよ。冬は芭蕉布を重ね着して寒さを凌いで夏はそのまま涼しく羽織るって言うのが生活習慣でしょう。
細く手で裂いた芭蕉の糸
泉二:
小さい頃から腕が良かったそうですね。菊:
お恥ずかしいけど、そうなんです。大島紬も結構作りました。細かく絣も入れられて腕がいいといわれ工賃も良かったんです。私が畑仕事と織り仕事に専念していたら、家族の生活は楽だったと思うんです。けど、若い頃はその腕を生かさずに民具ばかり集めてしまってね。母親を家族を泣かせてしまいました。泉二:
それが今の「民俗村」に行き着いた訳ですね。菊:
そうです。けど、その頃はそう言う物を作ると言う考えもなしにただただ憑かれたように集めていたので。「菊ん家の千代は、ゴミやがらくたばかり集めて来よる。」って周りから言われました。民具や民家を買い取るのにお金も使いましたからね。稼いでも稼いでも、稼いだ私が全部使うのでちっとも生活は楽になりませんでしたしね。泉二:
そう言う時期を通って今に至るわけですね。本当に色々な民具が残っていますよね。今は使われていないものばかりでしょう。菊:
そうです。今の子供に見せても「これ何? 」って聞かれるものばかりです。それにまつわる方言も無くなってしまったし。今では「文化を後世に残す貴重な財産ですよ。素晴らしい」と言ってくださる人もいらっしゃいますが、当時は「変わり者」扱いされて終わっていました。
菊千代さんの芭蕉布の帯
泉二:
でも今はお嫁さんも民族村をしながら芭蕉布を作っているし、お孫さんお二人も跡継ぎとして頑張っている。「おばあちゃんが目標」って言っているのは嬉しいですね。菊:
はい。本当に。最初は孫娘が3歳から始めて小学5年生辺りから「ぱーぱーの後は私がやる! 沖縄芸術大学を出て頑張る」って言い始めたんです。嬉しかったです。でも「生活が成り立たないから」と心配していたんですけど、今の私を見て「ぱーぱー、私も頑張れるよ。出来るよ。」って言ってくれて。そのうち孫息子まで「僕もやる! ! 」って。なかなか大変な仕事ですし、これで生計を立てるのは難しいでしょうが、与論島の良き風土と共に芭蕉布も残していってくれたら嬉しいですね。 夢が叶って泉二:
今回はシリーズで制作している冊子には出来なかったんですが、ホームページの「和織物語」コーナーで菊さんの事を紹介しているんですね。少しでも菊千代さんという方を知っていただきたいと思いまして。菊:
ありがとうございます。こんなおばあちゃんを紹介してくださって。私はね、今、天国の母親に「やっと親孝行できました」って言いたいんです。私の代わりに農家仕事してくれて泣いて説教してくれて。でも聞き入れなかった娘がやっと「民俗村」を作り「方言辞典」をつくり母が願い続けた「芭蕉布や大島紬を織って身を立てる」って言う事を80歳になってやっと出来た。これはとても嬉しいことです。ここ5年は泉二さんのお陰で私が織った芭蕉布で自分の生活を立てる事が出来て、孫達にも少しばかりのお小遣いが上げられて。本当に感謝しています。嬉しいことです。泉二:
いやいや。こちらこそ。菊さんの様な方とお目に掛かれて嬉しいですよ。人と人の繋がりのご縁に感謝しています。菊:
今回は念願の東京に来ることが出来て、それも「銀座」で自分の作った芭蕉布を並べてもらって、それを自分の目で見られるなんて。こんな嬉しいことはありません。長生きして良かったです。泉二:
これからも少しずつで構いませんから作り続けてくださいね。今日はありがとうございました。6月にお待ちしています。