(上写真) 運天裕子作 九寸名古屋帯「叢(くさむら)」くさむらで飛び交うトンボとヤゴを表現。
【対談】運天裕子さん×銀座もとじ
『運天裕子 初個展
~首里のはたおと~』に向けて
桜満開の空、小鳥のさえずりが軽やかに耳に響くころとなりました。
間もなく、ぎゃらりー泉にて、首里織・運天裕子さんの初個展を開催いたします。
あくなき探求心から生まれる創造力を美しい織物にする力量は類を見ません。“人生初”の個展を迎えるにあたり、運天裕子さんに今のご心境をお聞きいたしました。
写真左より運天裕子さん、弊社 續
国展で魅了されてから
銀座⇔沖縄で約2年半の文通
弊社文化企画デザイン室 續(以下 續):
運天さん、いよいよですね!
当初の予定が1年延期となり、ようやく初個展を開催できますことを心から御礼申し上げます。
運天:
一番最初に私にお声をかけてくださり、この場に立てていること、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。
續:
2019年5月開催の第93回国展にて、運天さんの「貝殻採集」の帯を拝見しました。
詩情あふれるデザインが端正な織りと色彩により確かな作品となっており、魅了されました。
作品のテーマから、どちらにお住いの作家さんだろう。すぐに沖縄とは結びつかず。
それから何通ものお手紙とお電話でのやり取りが続きましたね。
運天裕子作 九寸名古屋帯「貝殻採集Ⅱ」
旧暦3月3日の節句に、海水に手足を浸して身を清め健康祈願する沖縄の「浜下り(はまうい)」に着想を得た作品。
運天:
そうでしたね。最初はお電話をいただいてお話させてもらいました。
吟子先生が亡くなって5ヶ月くらいの頃でしたので、アトリエルバースの注文をこなしながらも首里織と自身の今後を考えている時期でもありました。
“作り手と共に一緒に仕事がしたい”との強い気持ちが伝わってきました。
續:
お電話でアトリエルバースのことをお聞きして、運天さんの確かな織りに納得ができました。ルバース・ミヤヒラ・吟子先生は2018年12月にお亡くなりになり、私も着物雑誌の偲ぶ特集を拝読しておりました。
ルバース・ミヤヒラ・吟子
首里織の重要無形文化財保持者(人間国宝)・宮平初子さんを母に持ち、琉球王朝の伝統と格調を引継ぎながら、都会的な感性で作られる作品がファンを魅了し続けた。2018年12月にご逝去。
運天:
吟子先生は、沖展制作時期の12月23日に亡くなりました。2015年3月に県立芸大を退任し、復元事業を終え、諸々の役職から解放されて、織機に座る時間が増えると喜び、さあこれから…という時でした。
健康だった先生の突然の訃報、私は“腰が抜ける”という初めての感覚でした。
周りの人も現実を信じられず。着物雑誌の取材も亡くなって2、3日後に来られ、正直、早すぎると思うのと同時に、それくらい偉大で影響力のあるお方だったのだと改めて感じました。早いもので昨年の12月で3年が経ちました、あっという間です。
續:
コロナで沖縄にも行けず、主なやり取りはお手紙とお電話、初めてお目にかかれたのは2021年11月でしたから、2年半?!(驚)
メールは便利ですが、その時の相手の感情を細やかに感じ、掴めるのはやはりお手紙です。運天さんのものづくりに真摯に向き合われる姿勢、明確な意思、芯の強さを実感し、お会い出来なくても信頼を築き上げてこられたように思います。
工房の周辺には多様な木々が青々と育つ。中には草木染料の原料となる植物も。(2021年に訪問)
運天:
作品展と聞いたとき、私のような者が、と、戸惑いもありましたが、私なりに歩んできた日々、その中で懸命に手掛けた作品は「いつか誰かにお召しいただきたいから」。そう思い、心を決めました。
アトリエルバースで過ごした34年間
初子先生と吟子先生、二人の恩師
續:
ありがとうございます。運天さんが34年間従事されていた「アトリエルバース」についてお話しいただけますか。
運天:
工房は「宮平工房」と「アトリエルバース」に分かれており、私はアトリエルバースに配属となりました。同じスペース、道具を共有し洗い張りも両工房総出で作業していました。
吟子先生は県立芸大で教鞭を執っており不在の日が多いため、初子先生にもたくさんの事を教わりました。
通常の制作は帯、着尺、タペストリー。タペストリーは手花のみの時間を要するものから、絣入りの変化をつけたものと多種多彩でした。沖展、国展の制作に多く携わり大変勉強になりました。
室内に飾られた宮平初子さんとの作業風景写真。奥には運天裕子さんの姿も見える。
宮平初子
日本民藝館や柳悦孝氏のもとで学ばれ、戦後に継承の危機に瀕していた首里織の復興と後継者育成に尽力。1998年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2022年3月7日に99歳でご逝去。
續:
34年もの歳月ですから、工房のまとめ役を務めるようになられた。
運天:
はい。制作の他に、スタッフ募集の面接官、新人への指導、芸大出身者には工房の伝統的な作業方法を伝えていました。
また、吟子先生の取材アシストも多く務め、2016年には地元沖縄電力のCMに2人で5秒位ですが出演しています。
續:
そうでしたか!探せるかな(笑顔)
初子先生、吟子先生からの信頼も深かったと思います。
運天:
学問として織物を学んだ事のない私は、きちんとした図案からスタートするという事ができるまで時間がかかりましたが、吟子先生がひらめいたものを図案に起こし作成し、試織する。
試織で出来上がった柄をサンプルとして後輩や新人に渡すという役目でした。
續:
宮平初子先生は3月7日、99歳で永眠されました。
戦後、一度はその伝統が途絶えそうになった首里織の復興に生涯かけて努められました。
今こうして私たちが首里の織物に触れることができているのも宮平先生とお嬢様のルバース・ミヤヒラ・吟子先生の御尽力なくしては叶わなかった。
ご功績に深く感謝いたします。
運天:
仰る通りで、初子、吟子両先生に憧れてこの道に入った私からみて初子先生は第一人者、吟子先生は継承者であり、私の道標でした。
初子先生は、首里織の伝統と創意工夫に加え、藍や赤や黄など色にも首里織らしさと多彩な色の感覚を持ち合わせていたと思います。
それだけでなく、道具や織り方の改良をしており、現在、私達が当たり前に使っている手花織の半綜絖(手花を織るときのガイドとなるもの)を考案しています。また昔は「花織帯」は総柄で織っていましたが、厚くて重くなるため、昭和35年頃初めて六通風に見えるポイント柄を考案したと聞いています。
現在は花織帯の基本形として広く織られています。
確かな手技だけでなく、道具や織り方の考案まで幅広く思いと力を尽くしてきたのですね。
葬儀の時は、いろいろな事が思い出されましたが…工房で遅くまで仕事をしていると、「早く帰って家事をしなさい」とせかされた事もありました。
初子先生のお人柄は、おっとりしているが、ひょうきんでお話好き。また、いつも男の人を立てていました。
吟子先生は、そういう初子先生と宮平工房を全面に出して、いつも立てていました。
両先生が亡くなられた今、寂しさはありますが、教わった年月、誇りの方が大きいですね。
續:
両先生と一番お傍で過ごされた運天さんからこのようなお話をお聞きして、改めて自分が所持しているお着物の背景の道程を知ることができ、より一層のぬくもりを感じます。多くのお客様もそうだと思います。
商品制作と復元の両輪で培われた
現代的な感性と首里織の伝統技術
續:
アトリエルバースでは、商品制作と復元のお仕事がありますね。
運天:
はい。 私が携わった部分のみ、大きな仕事を順を追って述べます。
1987年 海邦国体(42回国民体育大会)天皇陛下御椅子装飾(手花織)
1990年 沖縄県議会棟 議長席背面パネル装飾試織(格子両面花織)
議長席演台表側パネル装飾(手花織)
1991年 地元自治会獅子舞復元。獅子の毛を芭蕉糸で染色
(普段とは異素材なので試行錯誤でした)
1991年 本島北部本部町在のゴルフクラブ室内壁面装飾。幅90㎝、長さ200㎝タペストリー10枚制作。(スタッフ数名2名一組で大機に座り、昼、深夜勤交替で機を空けることなく織っていました)
1992~93年 首里城完成、首里城祭用ハチマチ復元。古い資料を元に図案を作成し、超細かい花綜絖を作り、40㎝~60㎝のサイズが異なるハチマチ布を赤、黄、紫色で制作。(無地と緯浮花織の二種)
1993年 文化庁手縞復元。試染、試織を主に担当、柳悦孝先生を招きアドバイスを受けました。
1993~96年頃 桐板復元。高機、地機による藍試染、試織5~6回、初子先生に指導を受けました。
2000年 初子先生人間国宝認定記念展、花織着物2点製織。
2002~03年 初子先生映画制作アシスタント、映像用花織着物製織。
2007年 和光2人展。主に吟子先生、ハチマチ柄振袖衣装、藍地絣入花織着物制作、他試織。
2014~15年 吟子先生芸大退任記念展。着物、帯製織。
2016~18年 県立博物館・美術館企画復元事業。
「絹深浅地アヤヌナーカー衣裳」藍建て、藍染、試織、製織。
續:
昨年、上野の東京国立博物館にて開催された、特別企画 沖縄県立博物館・美術館琉球王国文化遺産集積・再興事業 巡回展「手わざ -琉球王国の文化-」にて、運天さんも関わられた復元を拝見しました。
琉球王府の首都・首里に伝わる伝統の織物ですから、改めて心して向き合いました。
また、昨年10月31日(土)に放送されたNHKの番組「幻の布を求めて~琉球染織紀行~」(NHK沖縄)を運天さんからお借りしたDVDで拝見しました。私が拝見できたのは、吟子先生が生涯をかけて取り組んでこられた復元の一部分のお仕事ですが、先人を思い、仮説を立てながら検証を繰り返し本来の姿を伝え続ける御姿、追い求める情熱と使命感を感じることができました。沖縄の染織文化と歴史、大変心に響く内容でした。
20代?30代?の運天さん、宮平初子先生、吟子先生との御写真も拝見できました。
琉球王朝時代から伝わる位階・冠(ハチマチ)と伝統的な花織文様
運天:
復元の仕事は何種類もあり、その中でも「トゥンバン(桐板)」と最後に携わった「アヤヌナーカー(綾の中)」は試染、試織に多くの時間と困難を伴いました。大変な作業でしたが、これも両先生のもとにいたことで経験できた事です。
初子先生からは古来からの方法として、藍の選定、藍建て、藍染め、他天然染料の煎じ、染色等を教わりました。
特に「桐板」は、高機はもちろん地機の織り方まで直接手取り足取り教えていただき、とても勉強になり財産となっています。
また普段とは違う異素材の苧麻を藍建て~仕上げまで全工程行う事で、糸の糊付けや巻き方等の違いを学ぶ事ができ、後に生糸や芭蕉で作業をする時の導き、テキストのようになっています。
柳悦孝先生にお目にかかってアドバイスいただいたことも光栄なことでした。
トゥンバン(桐板)・・・士族の男女の夏限定の礼装として用いられた貴重な布で現在では幻の織物とされる。
アヤヌナーカー(綾の中)・・・縞と絣で構成した伝統的技法。
吟子先生も(復元の仕事は)古来からの作業方法に基本忠実でしたが、藍や天然染料の選定にはさらに良いもの、きれいな色がでるものを妥協することなく探して追い求めていたように思います。
また、試織の段階から退色前の色味や濃度を考慮するのはもちろん、色を再現と言うよりは、さらにきれいな色を出し、全体のバランスを見て、色を選ぶ。最後の最後までこだわっていたように思います。
商品の注文が重なったり、大きな仕事が続く時期は正に戦場でした。
吟子先生、後半の方は私を戦友と紹介してくださいました。
公募用の作品制作は帰宅後と休日
障子に“しばらく入らないでください”の貼り紙
續:
アトリエでの勤務は月~土の9時~5時でしたね?
その中、沖展や国画会への公募作品を創作されてこられたのですね。
いつ?どこで?私には到底、考えが及ばず。
個人の制作についてはご許可をいただいていたのでしょうか?
作るきっかけは吟子先生の「民藝館展や沖展に出してみたら!」でした。習い始めて5年くらいたった頃だったと記憶しています。
個人の制作は当然帰宅後と休日になります。
「大変じゃない?」とか「昼間に制作していると思った」等、言われましたが、最初からそのスタンスだったので少々キツイと思いながら続けていました。もちろん他のスタッフもです。
初子先生には「工房でどんなに仕事が出来ても自分の物を作らないと各方面へ推薦できない」、「他の工房には師のもとで働きながら個人制作している人がいるよ」、さらに「織子ではなく織工まで育って欲しい」と言われ、私自身励みになっていたと思います。
續:
そうでしたか、やるか、やれるかは別として、そのように言ってくださること、本当に素晴らしいです。
運天:
1作目だけ特別に染色と下準備を工房でさせてもらい、織機を購入。
実家の六畳の床の間の障子を全部閉めきって“しばらく入らないでください”の貼り紙でスタートしました。平日は夕方5時半に帰宅してせっせと織り、土日は朝から晩までです。
糸巻きを母に手伝ってもらいました。
差し入れをたくさん貰うこともあり実家の家族には今でも感謝です。
第95回国展「会友賞」受賞の賞状
第95回国展 会友賞 受賞作品「南風の杜」(非売品)琉球王朝時代から継承される技法「ムルドゥッチリ(諸取切)」で織り出された着物を4月8日(金)~10日(日)の期間限定で「銀座もとじ ぎゃらりー泉」にて特別展示。
續:
私は運天さんにお目にかかるまで独身だと思っておりまして。また、お目にかかり、こんなにお若く、20代のお子様がおられることにびっくりいたしました(笑顔)
運天:
いえいえ。結婚後もその生活は続き、アパートの一角、5畳くらいの部屋に普通の織機と大型の織機を置きタペストリーも織りました。夕方6時頃から9時とか、ギリギリの時は12時まで。時には夜中の2時に寝て5時に起き、柄一個織って出勤。帰宅後6時から眠くなるまで織る、というパターンでした。締め切り前は夕食が弁当ということは度々ありました。
アパートの上下階を気にしながら作業しているつもりでしたが、花倉織などを夜中に織っている時に2回ほど苦情がきた事もありました。
子供がお腹にいる間も、機に座れるまでは織っていました。
子育てしながらも同じ生活です。小さい頃は寝かしつけてから作業に入りました。
家事、育児、学校行事で時間は限られますがやりくりして何とかやっていました。友人、知人と会う時間が少なくなり、友達がどんどん減っていく感じでした (笑)
“大変じゃない?”とか“どうやっているんですか”と聞かれましたが、当時は無我夢中でうまく説明が出来ませんでしたね。
ものづくりには空間(スペース)と時間が必要です。どちらも備えられればいいのですが、ベストな環境が無ければ、創意工夫してやるしかない。空間があれば時間が生まれ、時間があれば空間が無いことを補える、漠然とした思いが頭のどこかにありました。
また、間取りの小さなアパートで、台所の片隅に置いた織機を厚手の透明ビニールクロスでカーテンのように囲み、水や油を除けながら織っていた時代もありました。
私をこの仕事に駆り立てた原動力は、初子、吟子両先生の活躍ですが、何度かの引っ越しがあり、その度に多くの織道具や重い書籍をいっしょに運んでくれた家族、好きな仕事を続けられるような環境をつくり理解してくれた夫の存在は大きかったと思います。
續:
言葉がございません。ただただ、運天さんの染め織られた作品を見つめ直すだけです。
糸1本のミスも当然織り直す
「紅型に負けない物を作る」
運天裕子作 絵羽 道屯織「青竹」
道屯織(ロートン織)は経糸が表裏両面とも経方向に浮く紋織技法で、王府時代は官衣として使用されたといわれる。単独で直立する若竹(琉球竹)の伸び伸びとした姿、白く光って見える節を道屯織で表現。
續:
最後に、ものづくりで大切にしていることをお話しいただけますか。
運天:
デザインよりも先に、組織的に丈夫であることに気を遣っています。
着用した時や、自身がこの着尺や帯を買うような気持ちでいつも織っていて、少しの織りムラや1本のミスも当然戻って織り直します。
ですから毎日一定のリズムで織れるように気持ちをコントロールするよう意識しています。
毎日毎日向きあって気づいたら良い織物が出来上がった、と言うのが理想です。
デザイン、創作性に関しては首里織らしさ(伝統継承)+自分らしさを大事にしたいと思っています。首里織という枠の中でも心の思うままに糸を並べてみたり、絣を織機上で手の赴くままに織ってみたりと自由につくることは大事にしたいと思います。
初子先生のお言葉、「紅型に負けない物を作る」、も意識しています。
續:
待望の初個展、もう間もなく開催となりますね。
弊社のHPにも作品をご紹介させていただいております。
制作がお忙しい中、大変分かり易く、心がゆたかになる作品コメントをくださりありがとうございます。沖縄の風土、自然、生活の営みの中での人を想い、願いが込められた織物として、作品を見つめることができました。
運天:
はい。よろしくお願いいたします。
ここが出発点、通過点なのでこれからの制作をもっと発展させ変化をつけねば…という思いです。
また、首里織を改めて見つめなおす事ができ、継承と創作を深く考えるきっかけができたことに加え、準備期間が自身のこれまでの仕事を振り返る良い時間となりました。
續:
4月8日(金)~10日(日)会期中の3日間の在廊、そして土曜日のトーク会、土・日曜日の作品解説となります。
銀座もとじのお客様へ、「新たな首里織の風、首里のはたおと」をお届けできるように、運天裕子様の魅力を余すところなくお届けいたします。
トーク会では復元制作にまつわる貴重な資料をご持参いただき、お話を伺います。
是非、ご参加くださいませ。
皆さまの御来店を心からお待ち申し上げております。
《ぎゃらりー泉》運天裕子 初個展
~首里のはたおと~
新しい作り手を応援する「ぎゃらりー泉」とは
女性のきもの専門店「和織」と「和染」の扉の間にもうひとつ、「ぎゃらりー泉」と書かれた扉があります。この扉は、いつか未来を担う作り手に出会えたら、この扉を開いて羽ばたいていって欲しいと、店主泉二が「和織・和染」の開店時より設えていました。 ぎゃらりー泉は、才能がありながら作品発表の機会に恵まれず染織の世界を離れていく多くの作り手を目の当たりにしてきた、店主泉二の長年の夢でもありました。これからの日本の染織界で活躍が期待される可能性を秘めた作り手に光を当て、作品発表の場を提供したいという思いから造られました。 2017年、運営が始まり、ぎゃらりー泉での初個展を開催。 染めや織りの作家としての一歩を踏み出された皆さんは、お客様の応援をいただきながら、その後も確実に着実に活躍の場を広げられています。