小紋師 藍田正雄
屈託の無い笑顔、優しい目、気取らない人柄、会った瞬間につい声をかけたくなる。そんな雰囲気を持つ藍田正雄。それが板場に立つと一気に変わる。口を真一文字にし、目は反物に吸い寄せられ鋭くなる。板に霧を吹き、白生地をのせ「地こすり」で平らにしていく。シュウシュウと音を出しながら手の中にすっぽりおさまる黒檀の「地こすり」。これは父の代から百年以上使っている欠かせない道具。板に反物を延ばした後は、これも百年以上使っている「地貼り木」の出番だ。最後に型紙をのせ、ヒノキのヘラで群青の顔料を混ぜた薄い水色の糊を置く。
藍田正雄の生い立ち
1940年茨城県生まれ。父は職人肌で小紋染めに命を懸けたと言っても過言でない人生を送った。その次男が正雄である。父親が板場で仕事をしている姿が大好きで、小学校から帰ると直ぐ板場に入り、夜遅くまで見ている子供だった。父の時代でもプリント柄の発展と大量生産の風が吹き職人技はどんどん軽視されていた。収入も安定しない。それでも正雄は父の仕事が好きだった。ある日板場に行くと珍しい事に父が最後のひと型をやり残したまま板場を離れていた。門前の小僧は、見よう見まねでやってみたくなった。型を動かし最後のひと刷けまで来たときに事件は起こった。
父親の職人魂を知る
中学卒業と同時に品川の更紗を中心とした型染め師の元に修行に入った。最初は覚えることがあって楽しかったが、父の手伝いを五年近くしてきた正雄である。あっという間に目新しいことが無くなった。三年と言う歳月が経つ頃には親方の型染めは殆どマスターし怖いものが無かった。そこで正雄は父と仕事を始めようと、勝手に親方の元を出て来てしまった。意気揚々と実家に戻った正雄を迎えた父の顔は怒りに満ちていた。「おめえなんかと一緒にやる気はねえ! 」あっという間に玄関から荷物と共に放り出された。「もう二度と父ちゃんの元になんか帰ってくるもんか! 」走り出した正雄を必死で追い駆けてきたのは母親だった。「正雄! 父ちゃんの気持ちが分からないか! その慢心した思いを見抜いて言ったんだ。職人はこれで良いと思ったらお仕舞いだ。親方に謝ってやり直して来い。」そう言って菓子折を持たせてくれた。母の顔を見ていると改めて父の怒りの意味が心にしみて来た。正雄は東京に戻ったが、親方の元には戻れる訳もなく行く場所がない。自分の慢心を 悔やみつつ、その後は自分の技術で勝負した。平井で三年、熊谷で三年、本庄で二年、児玉町で三年、短い期間を入れれば数え切れないくらいの親方の元で仕事をし、そこの親方や職人達の技術を眼で盗み渡り歩いた。どこへ行っても当時は「型置きの位置、立ち方、足運び」で技量が読める職人が揃っていた。三十歳を過ぎる頃には正真正銘の技術が身についていた。高崎で小紋師として
高崎の実家に戻り、所帯を持ち自らの工房を構えた。技術には自信があったが、世の中は大量生産から大量消費そしてオイルショックの時代を迎えていた。職人仕事に価値を見出す風潮は消え、どんどん仕事は減って行った。工房を出ると、六畳一間の家では卓袱台に向かって女房が万年筆のキャップを取り付ける内職をしていた。年端も行かない娘二人が一生懸命手伝っている。その姿を見た時「こんなに苦労を掛けていたのか。」と愕然とした。女房からも「ご飯が食べられる仕事をしてくださいな。」と懇願された。
希望の光
翌日、仕事場で最後の片づけをしているところに電話が鳴った。「今頃、電話なんて? 」そう思って受話器を取ると相手の声はこう言った。「岡巳の者です。今上野から社長と専務が揃って高崎へ向かいました。駅に迎えに来てくださいますか? 」と。びっくりした藍田は駅に向かった。車を停め、構内に駆け込む。「あの時間だとこの電車か。」駅の時計を見て一度車に戻る。すると、なんと警官が車の横で「駐車禁止」の手続きをとっていた。慌てた。駐禁を取られても払うお金がない。藍田は必死に事情を説明した。
伊勢型紙縞彫の人間国宝 児玉博氏との出会い
ある程度仕事が続き周りを見回せるようになった時、藍田はふと伊勢型紙の腕の良い職人が減りつつあることに気づいた。これは小紋師にとって致命的だった。急いで自分の希望する型を彫ってくれる職人探しに伊勢に出掛けたが、誰も取り合ってくれない。特に藍田がほれ込んだ縞彫の人間国宝、児玉さんには相手にもされなかった。何度目かの訪問で「そんなに俺の型紙が欲しいのか。これならやるわ! 」と一枚の型紙をくれた。藍田は直ぐに高崎に戻ってこの型紙で一反の白生地を一週間で染め持って行った。これには児玉さんが驚いた。そして藍田の腕に惚れ込んだ。「いい仕事をする。どんな型紙が欲しいんじゃ」と。これが縁で藍田は児玉さんが亡くなるまで型を彫って貰った。今も工房には児玉さんの型紙が大切に保管されている。江戸小紋を後世に残すために
藍田は江戸小紋を後世に残すために資料の収集も欠かしていない。児玉さんが亡くなったとき身内の方に頼んで残っていた型紙を譲ってもらった。また「岡巳」がなくなる時、収集していた裃八十点、江戸時代の打掛なども譲り受けた。藍田は言う。「私は職人ですから技術を次の時代に伝えていかなければならない。一方で現代に合う工夫もしていかなければならない。それにはまず昔の技術がどんなものだったのか基礎を知ることが必要です。それを伝える人がどんどん居なくなっている。だから借金してでも自分が見本帳みたいなものを作っておきたい。
プラチナボーイと出会って
昨年、藍田は泉二が生み出したプラチナボーイを初めて染め、白生地の質、染料の染み具合、糊の置き具合に驚愕し惚れた。職人としての血が久しぶりに騒いだと言う。今年の二月には一か月以上掛けて日が落ちてから夜明けまで一人板場に入り黙々と糊を置き、染を繰り返し、藍田独自のそして藍田にしか生み出せない江戸小紋を作り上げた。そして今、藍田自身が春繭から生まれたプラチナボーイの白生地を染めるのを楽しみに待っている。「プラチナボーイの白生地は本当に良い。泉二さんのお蔭で私の小紋師人生で最後の大きな課題が出来たような気がします。