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江戸小紋に生きる - 藍田正雄|和織物語

生涯を江戸小紋にかけたと言っても過言でない人がいる。 藍田正雄、71歳。 染めが好きで江戸小紋が好きで、人が大好き。 江戸小紋を守るためなら全てを投げ打っても構わないと思うほど江戸小紋に魅せられ守り続ける人だ。その生涯は決して楽でも、恵まれていたわけでもない。江戸小紋を愛した事でかえって苦労を重ねた。それでも江戸小紋を愛し続けている。敢えて「どこが魅力ですか? 」と尋ねると即座に「品格があることですね」と返ってきた。「用途の美しさに品格が備わっている。そこが魅力で自分が大切にしたいところです」と。 江戸小紋を守り後世に残すため、今、自分の技術を惜しみなく弟子に教え、私財を投じて「伊勢型紙」を集める。伊勢の型彫職人の元に通いつめて、新しい型紙まで作る。 『堂々と真正面からすべてを教えてこそ伝統』愛弟子を見つめながら言う藍田さんの目には、光る一粒の涙があった。

最後の渡り職人

父の仕事姿に憧れた藍田は、物心つく頃には板場に行くのが楽しみで仕方がなかった。中学を卒業してすぐ品川の染色工房に弟子入りをした。門前の小僧はメキメキと頭角を現し、2年後には周りから一目置かれる存在となった。そこで慢心した藍田は、「実家で親父と仕事をする」と無断で親方の家を飛び出した。 息子の心を見抜いた父親は、家に踏み入る事を許さなかった。東京に戻ったが、親方の元には帰れず、頼る当てがない。結局、藍田は決まった師匠を持つことが出来ず、自分の腕一つで仕事場を渡り歩いた。当時はどの板場にも腕の良い職人がいて、それぞれが厳しい目で見つめる。板場での立ち位置、ヘラの持ち方、構え方でその人の技量を押し計る。
藍田正雄さん 藍田正雄さん
藍田は必死で仕事をした。どんな小さな仕事でも失敗は許されない。毎回が真剣勝負。与えられた仕事を周りが期待する以上に仕上げなければ、次の仕事は貰えない。職人たちは決してよそ者に仕事を教えない。失敗しては親方に怒鳴られ、恥をかき、涙しながらも、必死で他の職人たちの技術を見て学んだ。そうしなければ、自分の腕で勝負をする厳しい世界で生き抜く事は出来なかった。 数え切れないほどの親方の元で仕事をした。ある時、藍田が染め、川で洗っていた反物が流された。探し歩いていると下流の工房の物干しに干してあり、職人たちがそれを見ながら「誰が染めたんだ。上手いな」と話していた。本当に嬉しく自信になった。 「型付三年、糊八年、ヘラ九年でなりかねる」と言われる職人仕事。しかし、30歳を過ぎた藍田は誰もが認める技術を持った染師だった。

江戸小紋師として

藍田正雄作 江戸小紋 極鮫 藍田正雄作 江戸小紋 極鮫
30歳を過ぎて高崎の実家に戻り、所帯をもって工房を構えた。15年以上の渡り職人生活で技術には自信はあったが、世の中からは職人仕事に価値を認める風潮が消えていった。力のある職人がどんどんリタイアして行った。それでも頑張る藍田に、父親までもが「もっと簡単に出来る染めものをしたらどうか」とアドバイスした。せっかく持った所帯も困窮し、家族の食費を稼ぐ事さえままならない。結局、女房が内職をして支えた。
藍田は自分の仕事で生計を維持することを必死で願い作り続けた。しかし、出来上がった反物は工房の隅に積まれるだけで行き先がない。ある日、思いつめた顔の女房が藍田に懇願した。「お父さんの仕事は好きです。でも親子が毎日ご飯を食べられる仕事をしてもらえませんか」。これが決定打だった。 次の日から就職口探しが始まった。中学卒業で応募できる職は少ない。高崎に開業したばかりの弁当屋が「正社員募集」の求人を出した。応募し受験したらすんなり合格した。「やっぱりこれが俺の進む道なのか」。道具を片づけ、反物を処分し、最後の一反を抱えて一晩泣き明かした。翌朝、どうしても諦めきれない藍田はその一反を抱え、東京へ走った。最後の望みをかけて上野から日本橋その他ありとあらゆる店に飛び込んで必死で自分が作った反物を見せ説明した。が、誰も取り合ってくれない。最後に入った江戸小紋を扱う店でも「良い仕事ですね」と言うだけで話は進まなかった。 「俺の小紋師人生は終わった…」藍田は失望して家に戻った。翌日、すべてを諦めた藍田に、突然、最後に訪ねた店から連絡が入った。一筋の光が目の前に差し込んだ瞬間だった。藍田の江戸小紋師人生が新たに動き出した。

江戸小紋と伊勢型紙

藍田は四十数年をかけて江戸小紋を作りながら、これらを後世に残すために資料収集も欠かしていない。 伊勢型紙の縞彫の人間国宝、児玉博氏の元へは何度も通い懇願して、とうとう型紙を作ってもらった。その後も付き合いが続き、児玉氏が亡くなった時には身内に頼みこんで残っていた型紙を譲ってもらった。また三十数年前からは伊勢型紙の産地である三重県鈴鹿市白子町を頻繁に訪れ、自分の希望する型紙を型彫師と相談しつつ作って来た。ここ10年は、伊勢型紙の保存会の検査員を務めていた。 伊勢型紙は5枚セットで作るが1番上と1番下の型紙は歯形が鋭利になり過ぎたり、甘かったりして使えない。中の3枚を型紙として使う。 藍田は言う。「江戸小紋師は技術があっても型紙がなくては何の仕事も出来ません。私だけなら今の型紙でどうにかなります。でも次の世代の弟子たちの事を考えると型紙を残す事、伊勢の型彫師と人間関係を作って少しでも多く作ってもらえるよう依頼する事が私の使命だと思っています。」

昔の型紙も全力で使い続けたい

昔の型紙の幅は、ほぼ「一尺」が原型でそれ以下でも以上でもない。しかし現代の人達は身長も伸び、手足が長い。特に男ものを作ろうと思うと「一尺一寸」は必要になる。近頃では「一尺一寸」の反物も増えては来たが、江戸小紋でそこまでの幅があるものは本当に少ない。これは対応できる型紙が限られているためだ。 今回、藍田は弟子の愛郎と共に裄を採る部分にだけ型紙を両脇に「五分」ずつ、ずらして型付をしている。
藍田正雄作 江戸小紋 木賊縞ぼかし 藍田正雄作 江戸小紋 木賊縞ぼかし
一反13メーターに型置きを繰り返すだけで大変なものを、全て仕上げた後に、今度はこの部分だけ型紙を左右にずらして反物の耳近くまで型を付ける。この部分は合計3回型紙を重ねて置くことになる。 伊勢型紙には横にずらすという習慣はないので、型紙に目印はない。技術と勘が冴えていなければ絶対に作れない。そして江戸小紋を着て欲しいという強い気持ちがなければこな大きいリスクを背負って作る事もない。藍田は今でも、常にチャレンジして、多くの人に喜ばれ楽しんでもらえる江戸小紋を作りたいと願っている。

周りの人に感謝の日々

藍田には今まで3人の弟子がいる。 最初は田中正子さん。今の藍田家を継ぐ愛郎さんの母親だ。藍染めが大好きで、その勉強をしているうちに藍田の工房にやって来た。主婦だった彼女に藍田は、「趣味の染めだな」と思い、気軽に工房に来る事を承諾した。が、彼女の想いはそんなに軽くはなかった。息子愛郎さんの成人式に自分が染めた藍染めの着物を着せる事を目標とし、結果作り上げてしまった。明るい人柄と包容力でいつの間にか工房内でお母さん的存在となった。技術にもどんどん磨きを掛け「日本工芸会賞」まで取った。 その後、息子愛郎さんも成人式に着た藍染めの着物が忘れられず、大学を卒業した後、なんと藍田に弟子入りを乞い入門した。親子揃って小紋染めに魅せられた2人だった。田中さんはその後、「息子が私の代わりに頑張ってくれるから」と自ら志願して、工房内のアシスタント的な仕事を徹底してこなし、みんなを支えている。 2番目の弟子は菊池宏美さん。大学を卒業し、誰もが知る一流企業に勤め、3年周期でモデルチェンジする最先端の機器を扱っていた。日々情報を集め海外とやり取りし次の仕事に繋げる。活気を帯びたその仕事にやりがいを感じ成果も上げていた。 ある日、彼女はふとウインドーに飾ってあった藍田の作品を目にし、一瞬で釘付けとなった。「素晴らしいものがある」 自分の生活指針がぐらりと揺らいだ。「私が作るものは3年経ったら残らない。けれど藍田先生が作ったものはいつまで も残る。私がしたいものは一体どっち? 」自問自答の日々が続く。とうとう彼女は高崎の藍田の工房へやって来た。何度も弟子入りを頼み込んだが、藍田は毎回断り続けた。「菊池さん、今の仕事は恵まれているよ。生活も安定するし休みもある。職人は楽じゃない、生活の保証もないよ」と。それでも彼女は譲らず、とうとう何もかも捨てて藍田の工房へやって来た。 根負けした藍田は受け入れ、そして受け入れたからには厳しく指導した。歯を食いしばり、涙をのみ、彼女は我武者羅についてきた。途中、大病に見舞われ「職人仕事は体力的に無理」と皆が思い、本人も辞めようと考えた時期もあった。 でも彼女は諦めなかった。昨年暮れ藍田の勧めもあり、彼女は藍田工房を卒業し独立した。藍田が餞別に彼女が得意な「縞」の伊勢型紙と板場の板を作って持たせてくれた。彼女は今一人で頑張っている。藍田は言う「あの菊池なら絶対にやり遂げる」と。 3番目の弟子が田中愛郎さん、今の藍田愛郎だ。 母の影響を受け、染めに入った。持ち前の才能と勘の良さと努力でどんどん力を付け、日本工芸会で新人賞も取り、程なくして正会員となった。今は藍田の跡継ぎとして一緒に仕事をしている。 愛郎さんは言う。「この仕事を嫌だと思った事は一度もありません。いつも新しい発見があるんです。時には失敗ばかりでダメだと思う日もありますが、翌日になるとまた仕事をする事が楽しくなります。7年前、親方から藍田の名前を貰いました。当初は無我夢中で何も分かりませんでしたが、3~4年経った頃に、この名前の重さを強く意識しました。でも親方はそんな僕をいつも実の父親みたいに励まし叱り育ててくれます。だから物凄く心強いし親方に出会えて本当に良かったと思います。親方に伝えたい言葉ですか。う~ん、照れくさいな。ありきたりだけど『ありがとうございます。まだまだお世話になります』かな」 最後に、藍田が本当に感謝したい人達がいる。それは今まで自分に関わってくれたすべての人にだ。藍田は2008年に「高崎市文化賞」を受賞した。それを記念して2010年初春に高崎市タワー美術館で展覧会を開催する事が出来た。職人として生きて来た藍田が初めて「美術館」と言う空間に自分の作品を置いた。夢のようで、そして本当に嬉しかった。みんなの力が無ければ出来ない事だと心の底から思い感謝した。そして今まで着物とは縁のなかった人達も美術館に足を運び藍田の作品を見てくれた。感想や意見が色々と聞けて、毎日が勉強だったし新しい発見があった。 最終日が迫って来た頃、今まで一度も作品展に来た事のなかった女房が突然「お父さん、最終日に見に行きたいな。」と言いだした。病床にある為、医師と何度も相談したが、許可が下りない。それでも「どうしても行きたい」と願う彼女の想いに医師も折れ、やっと最終日に看護師付き添いで会場に来る事が出来た。 酸素マスクを付け車椅子にやっと座った彼女が藍田と一緒に会場に入ると、なんと美術館にいる人全員が通路両側に並び拍手と笑顔で2人を迎えた。これには藍田もビックリした。生活が苦しい時も辛い時も泣き顔を見せた事のない彼女が、大粒の涙をこぼしながら囁いた。「お父さん、仕事続けて来て本当に良かったね。私も来られてよかった」と。 館内を見て歩く2人に一般のお客様も会釈をする。「俺が初めて女房に孝行出来た時です。本当に皆さんのお蔭です」と藍田は涙しながら頭を下げた。

銀座もとじで平成の巻見本を作りたい

藍田正雄作 江戸小紋 毛万二つ割 藍田正雄作 江戸小紋 毛万二つ割
藍田の今の目標は「江戸小紋で平成の巻見本帳」を作る事だ。昭和で江戸小紋の巻見本は作られなくなった。端切れで見本帳になっているものは博物館などにあるが、それでは実際にお客様が手に取ってみる事も身につけてみる事も出来ない。 そこで藍田は二尺の長さで見本を作ろうとしている。二尺あればお客様が肩に掛け、全体の雰囲気をイメージしたり、顔映りを見て取る事が出来る。
銀座もとじがプロデュースしているプラチナボーイの白生地に藍田が選び抜いた8柄を染める。一反を銀座もとじと藍田が半分ずつ見本帳として持って今後使っていく予定だ。 藍田が一点一点吟味して型を選び、色を選んで染めていく。「平成の巻見本帳」は、出来上がれば、新しい江戸小紋と出会う楽しみがさらに増えてくるだろう。 江戸小紋は同じ型を使っても職人によって染めの仕上がりが微妙に違ってくると言う。藍田には藍田の個性が、弟子の愛郎には愛郎の個性と特徴が出るのだ。 だから藍田は言う。「前人を乗り越える事は出来ません。私も父親を乗り越えたとは思いません。ただ同じように見える道でも違った歩き方をした結果、その人なりの成果を出す事が、皆さんの言う『越えた事』だと思います。職人は切磋琢磨してこそ良いものが出来るのです。愛郎と菊池はお互いに切磋琢磨していました。私も渡り職人生活を通して毎日が切磋琢磨の日々でした。私もまだまだ頑張りますが、その後は愛郎、菊池の2人がそれぞれの個性を発揮しながら新しい江戸小紋を作って行くでしょう。それが次の世代を育てていく事だと思います。」 絶えず江戸小紋に新しい風を吹き込もうとチャレンジを続ける藍田さん。 渡り職人の技術と優しい人柄が生み出す新しい江戸小紋を、ぜひお楽しみください。

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