最後の渡り職人
父の仕事姿に憧れた藍田は、物心つく頃には板場に行くのが楽しみで仕方がなかった。中学を卒業してすぐ品川の染色工房に弟子入りをした。門前の小僧はメキメキと頭角を現し、2年後には周りから一目置かれる存在となった。そこで慢心した藍田は、「実家で親父と仕事をする」と無断で親方の家を飛び出した。
息子の心を見抜いた父親は、家に踏み入る事を許さなかった。東京に戻ったが、親方の元には帰れず、頼る当てがない。結局、藍田は決まった師匠を持つことが出来ず、自分の腕一つで仕事場を渡り歩いた。当時はどの板場にも腕の良い職人がいて、それぞれが厳しい目で見つめる。板場での立ち位置、ヘラの持ち方、構え方でその人の技量を押し計る。
藍田正雄さん
江戸小紋師として
藍田正雄作 江戸小紋 極鮫
30歳を過ぎて高崎の実家に戻り、所帯をもって工房を構えた。15年以上の渡り職人生活で技術には自信はあったが、世の中からは職人仕事に価値を認める風潮が消えていった。力のある職人がどんどんリタイアして行った。それでも頑張る藍田に、父親までもが「もっと簡単に出来る染めものをしたらどうか」とアドバイスした。せっかく持った所帯も困窮し、家族の食費を稼ぐ事さえままならない。結局、女房が内職をして支えた。
江戸小紋と伊勢型紙
藍田は四十数年をかけて江戸小紋を作りながら、これらを後世に残すために資料収集も欠かしていない。 伊勢型紙の縞彫の人間国宝、児玉博氏の元へは何度も通い懇願して、とうとう型紙を作ってもらった。その後も付き合いが続き、児玉氏が亡くなった時には身内に頼みこんで残っていた型紙を譲ってもらった。また三十数年前からは伊勢型紙の産地である三重県鈴鹿市白子町を頻繁に訪れ、自分の希望する型紙を型彫師と相談しつつ作って来た。ここ10年は、伊勢型紙の保存会の検査員を務めていた。 伊勢型紙は5枚セットで作るが1番上と1番下の型紙は歯形が鋭利になり過ぎたり、甘かったりして使えない。中の3枚を型紙として使う。 藍田は言う。「江戸小紋師は技術があっても型紙がなくては何の仕事も出来ません。私だけなら今の型紙でどうにかなります。でも次の世代の弟子たちの事を考えると型紙を残す事、伊勢の型彫師と人間関係を作って少しでも多く作ってもらえるよう依頼する事が私の使命だと思っています。」昔の型紙も全力で使い続けたい
昔の型紙の幅は、ほぼ「一尺」が原型でそれ以下でも以上でもない。しかし現代の人達は身長も伸び、手足が長い。特に男ものを作ろうと思うと「一尺一寸」は必要になる。近頃では「一尺一寸」の反物も増えては来たが、江戸小紋でそこまでの幅があるものは本当に少ない。これは対応できる型紙が限られているためだ。
今回、藍田は弟子の愛郎と共に裄を採る部分にだけ型紙を両脇に「五分」ずつ、ずらして型付をしている。
藍田正雄作 江戸小紋 木賊縞ぼかし
周りの人に感謝の日々
藍田には今まで3人の弟子がいる。 最初は田中正子さん。今の藍田家を継ぐ愛郎さんの母親だ。藍染めが大好きで、その勉強をしているうちに藍田の工房にやって来た。主婦だった彼女に藍田は、「趣味の染めだな」と思い、気軽に工房に来る事を承諾した。が、彼女の想いはそんなに軽くはなかった。息子愛郎さんの成人式に自分が染めた藍染めの着物を着せる事を目標とし、結果作り上げてしまった。明るい人柄と包容力でいつの間にか工房内でお母さん的存在となった。技術にもどんどん磨きを掛け「日本工芸会賞」まで取った。 その後、息子愛郎さんも成人式に着た藍染めの着物が忘れられず、大学を卒業した後、なんと藍田に弟子入りを乞い入門した。親子揃って小紋染めに魅せられた2人だった。田中さんはその後、「息子が私の代わりに頑張ってくれるから」と自ら志願して、工房内のアシスタント的な仕事を徹底してこなし、みんなを支えている。 2番目の弟子は菊池宏美さん。大学を卒業し、誰もが知る一流企業に勤め、3年周期でモデルチェンジする最先端の機器を扱っていた。日々情報を集め海外とやり取りし次の仕事に繋げる。活気を帯びたその仕事にやりがいを感じ成果も上げていた。 ある日、彼女はふとウインドーに飾ってあった藍田の作品を目にし、一瞬で釘付けとなった。「素晴らしいものがある」 自分の生活指針がぐらりと揺らいだ。「私が作るものは3年経ったら残らない。けれど藍田先生が作ったものはいつまで も残る。私がしたいものは一体どっち? 」自問自答の日々が続く。とうとう彼女は高崎の藍田の工房へやって来た。何度も弟子入りを頼み込んだが、藍田は毎回断り続けた。「菊池さん、今の仕事は恵まれているよ。生活も安定するし休みもある。職人は楽じゃない、生活の保証もないよ」と。それでも彼女は譲らず、とうとう何もかも捨てて藍田の工房へやって来た。 根負けした藍田は受け入れ、そして受け入れたからには厳しく指導した。歯を食いしばり、涙をのみ、彼女は我武者羅についてきた。途中、大病に見舞われ「職人仕事は体力的に無理」と皆が思い、本人も辞めようと考えた時期もあった。 でも彼女は諦めなかった。昨年暮れ藍田の勧めもあり、彼女は藍田工房を卒業し独立した。藍田が餞別に彼女が得意な「縞」の伊勢型紙と板場の板を作って持たせてくれた。彼女は今一人で頑張っている。藍田は言う「あの菊池なら絶対にやり遂げる」と。 3番目の弟子が田中愛郎さん、今の藍田愛郎だ。 母の影響を受け、染めに入った。持ち前の才能と勘の良さと努力でどんどん力を付け、日本工芸会で新人賞も取り、程なくして正会員となった。今は藍田の跡継ぎとして一緒に仕事をしている。 愛郎さんは言う。「この仕事を嫌だと思った事は一度もありません。いつも新しい発見があるんです。時には失敗ばかりでダメだと思う日もありますが、翌日になるとまた仕事をする事が楽しくなります。7年前、親方から藍田の名前を貰いました。当初は無我夢中で何も分かりませんでしたが、3~4年経った頃に、この名前の重さを強く意識しました。でも親方はそんな僕をいつも実の父親みたいに励まし叱り育ててくれます。だから物凄く心強いし親方に出会えて本当に良かったと思います。親方に伝えたい言葉ですか。う~ん、照れくさいな。ありきたりだけど『ありがとうございます。まだまだお世話になります』かな」 最後に、藍田が本当に感謝したい人達がいる。それは今まで自分に関わってくれたすべての人にだ。藍田は2008年に「高崎市文化賞」を受賞した。それを記念して2010年初春に高崎市タワー美術館で展覧会を開催する事が出来た。職人として生きて来た藍田が初めて「美術館」と言う空間に自分の作品を置いた。夢のようで、そして本当に嬉しかった。みんなの力が無ければ出来ない事だと心の底から思い感謝した。そして今まで着物とは縁のなかった人達も美術館に足を運び藍田の作品を見てくれた。感想や意見が色々と聞けて、毎日が勉強だったし新しい発見があった。 最終日が迫って来た頃、今まで一度も作品展に来た事のなかった女房が突然「お父さん、最終日に見に行きたいな。」と言いだした。病床にある為、医師と何度も相談したが、許可が下りない。それでも「どうしても行きたい」と願う彼女の想いに医師も折れ、やっと最終日に看護師付き添いで会場に来る事が出来た。 酸素マスクを付け車椅子にやっと座った彼女が藍田と一緒に会場に入ると、なんと美術館にいる人全員が通路両側に並び拍手と笑顔で2人を迎えた。これには藍田もビックリした。生活が苦しい時も辛い時も泣き顔を見せた事のない彼女が、大粒の涙をこぼしながら囁いた。「お父さん、仕事続けて来て本当に良かったね。私も来られてよかった」と。 館内を見て歩く2人に一般のお客様も会釈をする。「俺が初めて女房に孝行出来た時です。本当に皆さんのお蔭です」と藍田は涙しながら頭を下げた。銀座もとじで平成の巻見本を作りたい
藍田正雄作 江戸小紋 毛万二つ割
藍田の今の目標は「江戸小紋で平成の巻見本帳」を作る事だ。昭和で江戸小紋の巻見本は作られなくなった。端切れで見本帳になっているものは博物館などにあるが、それでは実際にお客様が手に取ってみる事も身につけてみる事も出来ない。
そこで藍田は二尺の長さで見本を作ろうとしている。二尺あればお客様が肩に掛け、全体の雰囲気をイメージしたり、顔映りを見て取る事が出来る。