蒼い空、碧い海、一面に広がる白い砂浜、太陽が燦燦と降り注ぐ大地
『琉球紅型』は沖縄の地に生まれ育ちました。何度となく衰退の危機を辿りながらも、今なお、新しい風を吹かせ、新しい感性を含み、それでいて琉球独特の雰囲気を併せ持つ世界。
その世界を守り続けてきた「紅型三宗家の一家、城間栄順氏」。
「紅型」の歴史
琉球紅型の起源は15世紀頃と言われ、琉球王朝が盛んに東南アジア諸国や中国と貿易を行っている中で生まれたと言われています。そして沖縄の高温多湿の気候、風土に育まれ、琉球王朝の繁栄と共に独自に開花したものです。
紅型の「びん(紅)」は「色」を指し、「かた(型)」は「模様」を意味します。琉球王朝の保護下、次第に技術も高められ、王族や高官、貴婦人等の高貴な人々の衣裳、王からの下賜品、冊封使を招宴する宮廷舞踊衣裳などとして、華麗な美を誇りました。
色彩的には、「赤、黄、青、紫、緑」の5色が基本となり、顔料と植物染料を駆使し、大胆で華やかに色彩した「紅型」と藍の濃淡で染めた「藍型」に大別出来ます。模様は松竹梅、菊、牡丹、桐などの植物文様、鶴、亀、蝶などの動物文様、山水、流水など自然文様が主で沖縄独特のデイゴやハイビスカスなどは近年になって用いられるようになりました。
「紅型の技法」とは
型紙には和紙を柿渋で固めた「渋紙」を用います。大きさは奉書紙一枚の大きさが単位となり、その紙にデザインした図案をルクジューと言う木綿豆腐一丁分を乾燥させて作ったものを下敷きにして小刀の刃先を使い突き彫りして図案を渋紙に彫り上げます。
木綿豆腐を乾燥させて
作ったルクジュー
このルクジューを台に使うのは小刀の刃先の当たり具合が適度で使いやすく、また渋紙に余分な穴を開ける事もなく出来あがるからです。型紙の型彫りが出来上がると布面に型紙を置き、その上から防染糊をヘラでしごいて糊を置いて行きます。この時の糊はもち米で作ります。琉球紅型は型紙一枚を用い、それを連続して型付けし一反の着尺に染め上げるのが特徴です。
次に「色差し」をします。紅型の模様を染色する事を「色差し」と言い、紅型の色彩の美の特徴はここにあります。赤、黄、青の3色を基調に色差しの順序は、赤系統の明るい色から順に暗い濃い色を差していきます。紅型は顔料を使っている事も多いため、染めを固着させるために豆汁を溶いてその上澄み液をかけていきます。
刷り込み刷リ毛と
糊引き筒袋
色差しが済むとその上に同色の色を重ねて刷り込んでいきます。これを「刷り込み(2度刷り)」と言います。「配色刷り毛」と「刷り込み刷り毛」の2本を用いて顔料を布面に強く浸透、付着させます。刷り込み刷り毛は人毛(髪の毛)を竹筒に通して作ったものが用いられます。
最後に「隈取り」が施されます。隈取りは模様の彩色の後に中央部や縁部に濃い色を入れ、それをぼかしながら刷り込む手法で使用色に一定の決まりがあります。隈取りをすることで模様の強弱、立体感、遠近感を出す事が出来るという琉球紅型の独特の手法です。
総ての色差しが終わると、模様の部分を型置きの糊より粘り気のある糊で伏せ3回位引き染めをして地染めをします。その後、蒸してから、地下の涌き水で糊を落とし完成させます。
城間家の歴史
紅型は琉球王朝の保護下で、王朝お抱えの絵師が図案を描き、彫り師が型紙を彫り、それを紅型三宗家と言われる「城間家」「知念家」「沢岻家」を中心とした紺屋が染める形態で首里を中心に生産されていました。それが廃藩置県により自由生産に移行したことで、主産地が那覇に移り、紅型需要が減少し、紅型工房は衰退の途を辿りました。
藍一色で染めあげる、
紅型とはひと味違った
「琉球藍型」
第二次世界大戦により壊滅的な打撃を受けた首里、那覇では紅型の資料も焼失してしまいました。その中で先祖代々紅型家業を受け継いでいた城間家の城間栄喜氏と知念家の知念績弘氏が戦禍をまぬがれ、終戦後、那覇、首里に戻り紅型復興に取り組みました。
戦禍で諸々の道具、材料、資料などはすべて消失。物資不足の中、紅型製作に必要な道具類、型紙用の紙、染色に必要な生地などは入手困難となっていましたが、「なんとしても復興を! 」と願う一心から廃物利用と工夫により、道具類を調達し復興に努めました。
例えば、型彫り用の小刀は時計のゼンマイの破片を利用し、糊引きの筒袋は軍用の厚手の生地、筒先は薬莢、型紙は軍用地図やハトロン紙、ルクジューの代わりに厚手のゴム板、型置き用のヘラはレコード盤の破片。染料は身近に有る植物を活用したり、赤レンガをすりつぶして水干したものや貝殻を砕いて作ったものを利用したり、医薬品の残りで染色したりしました。生地は琉球絣産地から白生地を購入するほか、落下傘を解いたり、メリケン袋を利用しました。
1950年頃から首里に集まった画家を中心に城間栄喜氏を盛り立てて紅型復興運動が起こりました。この時に「琉球紅型技術保存会」が結成され、昭和48年には「琉球紅型伝統技術保存会」(会員16名)が城間栄喜氏を中心に結成され、県無形文化財の指定を受けました。
その後も、城間栄喜氏は技術を追求し紅型作りに専念する姿勢を崩さず、最後まで職人気質を貫き通した人でした。
城間栄順氏の世界
城間栄順氏は先代(14代)の城間栄喜氏の長男として生まれました。 父の栄喜氏はハレの舞台を好まず、ただひたすら『紅型』の復興に力を注いだ人であ り、その子栄順氏も父親譲りの職人気質をしっかりと受け継ぎました。栄順氏は、「海が大好き」で「魚が大好き」。自然をこよなく愛する人です。その気持ちが作品にも表れ、海、魚、珊瑚など人の手に荒らされていない綺麗な沖縄の海をモチーフにしたものが多く作られています。
紅型を前に、真摯な
眼差しの城間栄順氏
その紅型作品一つ一つの細かい柄は、なぜか宇宙のような、果てしない大きな海のような、そんな空間を感じさせるのです。
あの細かい紅型のどこに無限の世界が作れるのか? と不思議に成るほど、『果てしない世界』が広がっていきます。それが栄順氏の作る紅型の世界なのでしょう。
父親譲りの職人気質で、手間ひまを決して惜しまない栄順氏。
「良いものを作りたい」
「自分が納得するものを作りたい。じゃなきゃ俺のオヤジに申し訳けが立たない」
「いつも思うんだよ、この出来を見たらオヤジはなんて言うだろうって。復興に命を掛けたオヤジに申し訳けの立たない作品は作っちゃならない。職人は仕事場を離れちゃならないんだよ。」
と言いつづける栄順氏。
自分には人一倍厳しく、作品作りには決して妥協は許さない。そして、他人には人一倍優しく、他人に警戒心を持たせず、自分も抱かない。いつも少年の頃の純粋な気持ちを忘れず、自然体を保ちながら父親の志を一生懸命継いでいる。
紅型と言う有限の世界の中に、無限に広がる世界を作り出す栄順氏の作品に是非触れてみてください。