「私は他の人より10年歩みが遅いのよ。だからまだまだ修行の身よ。若い頃は好き放題しちゃったから。でも丹波布に逢ってから、迷いはひとつもなかったわ。これしかないって思ったから、他の道なんて考えられなかった。後悔? そんなものないわ。」
幼子がそのまま育ったかのような無邪気な笑顔でいいきる福永世紀子さん。
幼い頃から他人と一緒が苦手で一人遊びが大好き。そんな少女は自分の思うままに10代、20代を生きた。他人から見たら「辛抱のない子」「かわった子」と映っただろう。でも彼女はひとり自分探しをしていた。運命の出逢いは33歳の時。80歳のおばあさんが紡ぎ出す木綿の糸に一生に一度の恋をした。それこそ命がけの恋だ。その恋は彼女の一生を変えた。「木綿のためなら」と自分の命、生活のすべてをかけた。10年、20年、他の人から見たら苦しい日々だったろう。
が、彼女にとっては瞬く間に過ぎた時間だ。
そして…いつしか…恋をした彼女が紡ぎ出す木綿糸が、今度は皆が恋いこがれる糸になった。丹波布作りから学び、自ら作りだした「土佐手縞」。魔法がかかったかのように輝いている木綿糸、そして独特の感性から作りだされるデザイン。すべてが新鮮で色は透き通るように美しく、そして8枚綜絖、6枚綜絖で織り出される織物はその人柄を表わすかのように強く潔い。
銀座もとじでの初個展です。素晴らしい作品をぜひご覧ください。
世紀子さんの生い立ちは?
紀元2600年に当る1941年、元旦、世紀子さんは父の仕事の関係で、旧満州国で産声を上げました。6人兄妹の末っ子、記念すべき日に生まれたため「世紀子」と名づけられました。故郷の高知で、すくすくと育ちましたが、なぜか他人と一緒に物ごとをするのが大の苦手。家の周りに咲く花をスケッチしては、色鉛筆や水彩で色を挿し、そうしていれば何時間でも機嫌よく過ごしているという、ちょっとかわった女の子でした。長じても相変わらずのマイペース。好きな事はするが、嫌いな事は決してやらないと言う頑固者。高校卒業後は、デザインの専門学校2校と美術大学に進学、それぞれを卒業し、シートクロスのペーパーデザインを手がける会社に就職しました。ここで3年仕事を続け「やっと落ち着いたか」と家族を喜ばせた矢先、机上でデザインするだけでは飽き足らなくなり会社をあっさり退職。「29歳にもなってどうするの? 」という家族の心配をよそに、綴織人間国宝の細見華岳氏の所へ「織を勉強したい。弟子にして欲しい」と頼みに行きました。世紀子さんの余りの熱心さに「内弟子になるには3年間は頑張らなければダメだ」という条件付きで入れてもらったものの、1年半が経つ頃にはどうしても綴織の分業体制になじめず、飛び出してしまいます。残り1年半は、自分の家で制作しては届けるという日々を過ごし、約束の3年をなんとかこなしました。
一生に一度の恋
綴織の技が身につき「福永さんに」という指名客も数人ついた33歳の初夏、人の誘いで初めて丹波の地に赴きました。当時は特に「丹波布」に興味があったわけでも、織りたかったわけでもなく、連れられるまま丹波布の本拠地、青垣町に入り、丹波布復興に尽力していた足立康子さん宅を訪問しました。反物と機を見せてもらい、そこから足立さんの案内で糸を紡ぐおばあさんの家を訪れたのです。
唐木綿風綾 八寸帯」(写真左・右下)
「変り綾 八寸帯」(写真右上)
そこで人生を根底からかえた運命の出逢い、一生に一度の恋が生まれます。縁側で何気なく軽やかに糸車を廻すおばあさん。「絵になる景色ね」と思ってのぞくとその手からは、見たこともないような、魔法にでもかかったような綺麗な糸が引き出されて行くのです。
「これはなに? なんでこんなに綺麗なの? 」「なぜどうして? 」と色々な感情が一気に押し寄せ、そして次には一筋の光が差しました。
「これだ! 私がやりたかったのはこれだったんだ! ! 」
それは正に天の啓示でした。
無理を言っておばあさんにかわってもらい、引いた糸は、めちゃくちゃな出来上がり。おばあさんは苦笑いでしたが、それが世紀子さんの「一生の宝物」になりました。大切に抱えて帰り、家に着いた時にはすでに「丹波に行こう。この布を織ろう」と心に決めていました。思い立ったら即行動の福永さん。それからたった半年後の12月、福永さんは丹波に移住していました。
当時、高知県に住んでいた福永さんの母親は明治生まれ。母にとって木綿は「絹が買えない人が着るものだ」と言う考えしかありません。「それを作るために引っ越しまでして、これからの人生を費やすなんて」と大反対。丹波布の保存会の会長や足立さんからも「丹波布では生活が出来ない」と何度も忠告されました。「誰が何と言おうと覚悟は出来ている。」それが世紀子さんの意志の固さです。一年を3分割して綴織、保存会の仕事、丹波布作りに当て生活を開始しました。3年が瞬く間に過ぎ、その頃には母親が反対しつつも、一年に数回は丹波にやって来て、寝食の時間も惜しんで木綿作りをする娘の世話をしていました。
藤本均氏との出会い
3年後、恩師ともいえる「三彩工芸」の藤本均氏に出逢いました。「ここからが本当の意味で織人生最大の山坂になった」と世紀子さんはふり返ります。
初めて作品を見てもらった時、「貴女が本気で取り組む気があるのなら貸しましょう」と日本屈指の布の蒐集家でもあった藤本さんが、和紙で表装された貴重な丹波布をひと包み貸してくれました。帰宅して初めて本物の丹波布を見た福永さんは、愕然とします。
「こ…こんな布、織れない…。」糸の細さ、鮮やかな色、動かない縞組、風合い。今までの自分の経験を総動員しても到底追いつけないものでした。「もう一度初めからやり直しだ」
エジプト綿、米綿、インド綿とあらゆるものを取り寄せ、引き比べ、染色も自分で手がけました。そして2~3反を織り上げると風呂敷に包み、汽車に乗り大阪の藤本氏の所へ通いました。「ダメだね」「これじゃまだまだだよ」。突き返される反物を持ち帰ることの繰り返し。しかし、行くたびに藤本さんは「参考になれば」と国内外の織布を沢山見せ、触れさせてくれました。福永さんはそれを自分の血肉にして制作を続けて行きました。藤本氏との出逢いから3年が経過したころ、「そろそろ民藝館展に出してみないか」と声をかけてもらい、5点を出品。
「丹波布の復元をするなら元の布の2~3割は濃い色をだしなさい」という柳悦孝氏の批評もいただくことができました。
その後、丹波布の復元に尽力していた小谷次男氏にも逢い、「藍建ては自分でするように」とのアドバイスをもらい、四国大学の野田良子先生のもとで「藍建て」の指導を受けました。
藍は作る人との相性がなかなか難しいと言われますが、福永さんには徳島の藍との相性がとてもよかったのか、13年間一度も失敗がなく、藍の命を全うすることができました。
21世紀に土佐でスタート
奥: 着尺「紺地やたら縞」
手前:着尺「生成地ピンク 青小格子」
娘を心配し、20年間丹波に通ってきた母も80歳を過ぎ、福永さんが実家に足を運ぶ機会が増えてきました。今までなんの郷愁もなかった土佐が、通うたびに、こんなにも空が青く空気が澄み渡り、緑がたくさんあって安らげる場所だったのかと気づいたのです。「そうだ! 故郷に帰ろう」。1999年の年末に戻り、「21世紀」を土佐で迎えました。土佐の空気や気温の中で作る木綿の布はさらにさらに柔らかく、染める糸の色は今まで以上に透明度が出て純度の高い色が出て来たのです。
糸染めは一色に一か月をかけ、10回から15回染め、媒染を繰り返し、染め重ねます。20代の3年間、クロス地をデザインしていた時に徹底的に「どんな色でも出せるようになれ! 色の好き嫌い、得意、不得意を作るな! 」と厳しい指導を受けて来た事が、今は活かせているといいます。
木綿作りに反対していた母親は、8年前に他界しました。最期まで仕事には120%反対でしたが、娘の頑張りは仕事以外の面で120%援助してくれた母でもありました。
自分なりの織「土佐手縞」
1. 1日に1枚の図柄を描く
福永さんが作る帯は「丹波布のようで丹波布ではない」とよくいわれます。丹波布の特徴である民芸調なデザインから離れ、モダンで活き活きとして今の着物にセンスよく映えるからです。自分なりのデザインで制作することを始めてから「土佐手縞」と名付けました。
一日の半分は織ることに当て、残り半日の数時間は綿から糸を紡ぐこと、残りの時間で大好きな草花をスケッチし、それをもとに限られた帯という空間にイメージを作ってデザイン化していきます。デザインが決まったらもう迷いはありません。この作品が出来上がるまでは、それに徹底して向き合います。デザインは「潔い」という言葉がぴったりくるほど、澄んだ色使いと力強さに満ちています。「土佐の女は、よさこい踊りと一緒。前に前に進んで行くの。だって頭で考えるより身体で感じて行動するから。それが一番大事なのよ。」
2. 綿から糸づくり
中入れ綿が届くと、枡の箱を使って寸法を取り、ジンキを作ります。ジンキとは綿をしのび竹で丸めて棒状にしたものです。6つのジンキで1つのツムが出来ます。ツムとはこのジンキから糸車で糸を引きピラミッド状に巻いたものを言います。メキシコ綿なら一日6個から8個のツムを作ります。帯1本分の経糸にツムは36個必要になります。福永さんが縁側で糸車を廻す姿は、正に一つの美しい絵。その手から紡ぎだされる糸は「これが綿? 」とため息が出るほど輝いていて、私達を魅了して離しません。
福永世紀子さん
3. 綾織りを入れる
丹波布は平織りですが、福永さんが作る「土佐手縞」の帯は表情や趣を出すために綾文様で織っています。組織織の本で独学習得し、6枚綜絖と8枚綜絖の機を使って帯を作っています。現在では帯は8枚綜絖の機で織るのが中心です。丹波布は途中で「くず繭」をずりだしにして入れ込みましたが、福永さんの場合は絹糸を時々飾り程度に織りこみます。それ以外は綿糸ですべて織りあげます。「私はね、八枚綜絖で織るのが好き。可能性が広がって楽しいから。」
福永さんは経糸、緯糸とも手紡ぎの木綿糸を使用し、組織織の出来る第一人者です。
自由奔放で少女のような福永さん
取材でうかがった。初対面ですぐに「嫌な事は話さないからね」「写真も嫌いよ」と笑顔で無邪気にいう。「え! ? 案内状なのでお写真をお願いしたく…」「あら、なくてもいいわよ」…そうなんだけれども…困ったなあ…。
こちらの思いを余所にどんどん話は進んでいく。「この仕事に迷いは? 生活が成り立つまで心配じゃなかったですか? 」「え! ? 迷い? そんなのないわ。迷うんだったら辞めたらいいの。それは決心がついていない事でしょ。」なるほど、潔い、おっしゃる通りだ。迷うのは私達がまだまだ甘いのだ。
その後、写真をなんとか撮りたいと「糸車を廻す所」で密かにカメラを構える。うつむいて糸車を廻すから表情が撮れない。ムムム、失敗。次のチャンスを狙う。「そうだ、染め場へ入ったら直ぐカメラを構えよう。」染め場の入口でスタンバイ。私達の行動を知ってか知らずか、福永さんはなんと団扇を持って登場。しっかり顔を隠す。「やられた。一枚うわてだ。またダメだ。」最後のチャンスは帰りぎわの門の前で。と、2台のカメラでスタンバイ。なんと! 紅型の日傘をさして登場。ああ…またやられた。写真が撮れない。
でもこのやり取りが何とも可愛いくて憎めないのだ。「仕方ないな、世紀子さんは! 」と最後は思ってしまうのだから不思議です。
福永世紀子とは…
「糸はね本当に正直なものなの。だから紡ぐ人、ひとりひとりの人間性が出てしまうの。私は綿の白さが大好き! だから、続けるのよ」「いつまで? さあ、ここまで来たら、今の暮らしが終わるか、命が終わるか…そのいずれかね。その時が来るまで私はずっと作り続けるわ」そういう福永さんは、いつまでも少女のようなあどけない笑顔をしていた。藤本氏から遺された「美の行者であれ」と言う言葉を胸に30数年。先人達から頂いた恩恵のひとつひとつをかみしめ、前に前にと進んで来た福永さん。
一生に一度の恋は、今は両想いになった。
威張らず、てらわず、潔くて、美しい。
福永流「土佐手縞」は今も一つ一つゆっくりと生みだされている。
着物好きが「魅力的」「素敵」「初めてみた! 」と感嘆の声を上げる手紡木綿布。
福永さんの手から紡ぎだされる綿の糸は、さらに着物好きを魅了して行く。
素晴らしい作品が揃いました。ぜひご覧ください。