お嬢様から作家への転身
東京生まれの東京育ち。 父は国会議員で某製薬会社の創立者。恵まれた環境で不自由のない生活を送り、母の影響で毎日呉服屋通いをしていたお嬢様が、ふとしたきっかけである織物に出会った。一瞬にして身体中に電気が走り、動けなくなり、その後、熱に浮かされたようにこの織物に捕り付かれた。何をしていてもその織物が記憶から離れない。 なぜ? なぜ? 自問自答する日々の中でこの織物が「郡上紬」であると知り、その故郷へ。そこで宗廣力三(むねひろりきぞう)先生の作品と出会う。 「素朴で土の匂いのする温かい織物。こんなに素敵なものがこの世にあったとは……」 惚れて惚れて惚れ込んで、目に付くものは経済的に許す限り、すべて買い求めて纏って行った。それでも飽き足らない。あれも欲しいこれも欲しい。あれも着たい、これも着たい。とうとう両親の大反対を押し切り、自分で「郡上紬を作る道」に飛び込んでしまった。 宗廣先生に弟子入りの依頼をしても「お嬢様のお遊びでは務まらない。駄目です! 」と相手にされず門前払い。それを熱意で説得し、とうとう通いの弟子入りを果たした。 それからは、週に2回、早朝子供を実家に預け、新幹線で宗廣先生の所に通っては教えを請い、深夜に自宅に戻っては復習し染を繰り返す日々。真っ白なお嬢様の証とまで言われた手は、ひびやあかぎれで一気にボロボロに成った。荒れた手を見て泣く母の姿が忍びなく、隠しながら実家に子供を迎えに行き、連れて帰る生活。 それを一度も苦だと思った事は無く染織を辞めたいと思った事は無かったという。そして月日は流れ、40数年。その人は草木染作家としてひとり立ちしていました。水の良いところを求めて福岡へ
東京で生まれ育った甲木さんが今の福岡に工房を構えたのは1982年のことです。最初は空を飛ぶ飛行機の姿を見るたびに郷愁にかられ「東京に帰りたい……」と涙する日々。でも作家としての仕事を続けるためには「植物が豊富」「水が綺麗」「太陽が輝いている」「空気が澄んでいる」という条件をかなえる所がどうしても必要でした。ここに工房を構えるまでに探した土地は、30箇所余り。やっとすべての条件が満たされ、尚且つ絣を作るために四丈物が広げられる広さを手に入れることが出来たのが今の土地でした。 今は日の出とともに仕事を始め、日の入りとともに終わる生活がすっかり身についています。甲木恵都子の草木染紬の特徴は
1.紬のようにつっぱらず、縮緬のように垂れない。シャンとしているけれど硬くない。
「着物は着て楽しむ、着てもらわなければ意味がない。」と思っている甲木さんですので着込んで頂くこと、それも三代にわたって着て貰うことを願って作っています。もちろん仕立て替えてもピンとしていることが大前提ですから、打ち込みはしっかり、長く着ていてもお尻や膝が出る事は殆どありません。糸にもこだわります。経糸は玉糸で節も活かして使います。緯糸は春真綿を紡いで使っています。
2.「お召しになった時に品のある良いもの」を作りたいから一反染めの一反織
植物採取は、各植物の一番状態の良い時期に最高のタイミングを計って採取します。「自分にしか出来ない良いものを作りたい」という想いから染液ひとつを作るのにも熱が入ります。一反を作るために必要な最低限の植物の量を経験値から早朝に採取。翌日の朝5時からは必ず煎じていきます。必要最低限の量しか有りませんから、植物の葉一枚たりとも無駄にすることは出来ません。染液を煮出す時に一つ一つを大切に扱うことで自分の思いが込められ、それに応じて草木が反応しその命を確実に貰うことが出来るのだと言います。染料の出来具合を見て、たとえ一番煎じの染め液でも灰汁が強ければ捨ててしまいます。無地紬を作るときは糸染めが終わっても、それを全部使うとは限らず、その中でも染まり具合が均等で透明感の有る糸だけを使って作ります。それぞれの糸の出来上がりに応じてデザインを決めています。毎年同じ時期の同じ時間帯に採取しても絶対に同じ色のものは出来ない。これが草木染の素晴らしさだと言います。3.「自分が着たいものを作っている」から使い勝手には自信があります
ほぼ毎日自分が着物を着て生活していることと、「自分が若かったら……」「自分が今の歳だったら……」「自分が歳をとったら……」と各々のシュチュエイションを考えて作っているので、使い勝手には自信があります。帯は年間10本から12本作りますが、殆どが八寸帯の浮織にしています。
浮織は、女性がお洒落で身に付ける指輪が絶対にひっかからないよう、裏側には糸が通らないようにしています。
4.湯通し以外は全部自分で
植物の採取→染料つくり→糸染め→図案描き→糊付け→織→砧打ち→仕上げ この工程を甲木さんは全部自分でします。草木染は微妙な植物との呼吸で染を進めますから、自分の勘が頼りです。染を繰り返すか、ここで止めるかで色の澄み具合などが微妙に変わります。全部自分で進め、自分の納得できるところで染をやめ、出来上がった糸を充分に見極めて図案を描き織り始めます。無地にするか、柄にするか。それも出来た糸の色次第です。父の遺言を守り「品格とはらわたを大切に」
甲木さんが織物を始めたときからお父様は大反対。なかなか作家活動を認めてはくれませんでした。とうとう「この展示会を最後に織物をあきらめる」という約束を父と交わし最後の展示会を三越で開きました。ところが、思いもよらずこれが大成功!! この結果を目の当たりにした父親がやっと納得。父親は娘に「甲木の名を名乗って作る限り、作品には品格が無くてはならない。売り物を作ろうとしては成らない。必ずはらわたのあるものを作れ! これを生涯貫くのなら作家として歩みなさい」と許してくれました。それ日から、父親は一番の理解者であり、厳しい批評家になりました。 「どうせやるならいつかファッションの都、パリで個展を……」というのが父親の夢となりそこから二人三脚が始まります。数年後に父親の援助を受け日仏の文化交流の一環としてパリでの個展が実現できました。 「パリの次はニューヨークだ! 」と個展の最終日に涙ながらに励ましてくれた父親は、ニューヨークの夢を叶えることなく亡くなってしまいました。「いつかニューヨークで個展を」は今も甲木さんの心の支えであり、目標です。作品展を前に思う事は
今回の作品展を前に思うことは……と伺うとこんな回答が返って来ました。
「山ほど色々な着物を着てきた私が辿り着いた本当に欲しい着物は『都会的で洗練され、纏うと一段と女っぷりが上がるような美しい紬』でした。自分の理想とする今までに無い紬を創ろうとこの道に入ったのです。草木の自然の色を頂いて同じものは二つと作らない。それは草木染による一織一反を貫く始まりでした。