著者:外舘和子(多摩美術大学教授)
北海道旭川市の国際染織美術館には、様々な染織が小裂のサンプルとともに紹介されており、その中に「筑後国 久留米絣」の作例として松枝玉記(1905~1989)のものもある。 インドで生まれ、日本には14、5世紀に琉球(沖縄)に伝わったとされる絣は、江戸後期の19世紀以降、日本各地で発達した織物で、例えば筆者の地元茨城県の「常陸国 筑波絣」「常陸国 浜田紺絣」も同美術館に展示されている。しかしそれらがごく素朴でシンプルな作調を示すのに対し、松枝玉記の久留米絣は、経緯絣を駆使した大柄の絣模様で、白い部分と濃紺部分との対比を強く利かせた華やかさが小裂からも伝わるものであった。 今年2016年は松枝玉記の生誕111年にあたる。現在、松枝家では玉記の孫・松枝哲哉・小夜子夫妻が協力しながら、それぞれの絣を展開させているが、銀座もとじで開催するこの度の松枝夫妻の展覧会はその記念展でもある。松枝夫妻の絣の背後には、約200年に及ぶ日本の久留米絣の歴史があり、特に地場産業としての久留米絣から作家としての絣の表現に向けて仕事の幅を拡げてきた松枝家・130年余りの歴史がある。今回はその系譜をたどりながら、夫妻の仕事の背景にあるものを中心に紹介したい(註1)。
松枝家と織
松枝家で織の仕事を始めたのは玉記の祖父・光次の代である。織屋としての松枝家の当主を辿ると、松枝光次、栄、玉記、栄一、そして5代目が哲哉となる。松枝家が織屋としてスタートしたのは、西南戦争後の1882年頃からのことで、一家、一族で藍の絣に取り組むようになった。当時の主要な織り手は光次の長女みかであったという。光次の次男・喜代次は徳島から阿波藍を仕入れ、染料屋として成功している。 松枝家が久留米絣に取り組み始めた頃、それまで「筑後の産物」であった藍絣を久留米の駐屯兵が土産に持ち帰り、全国に「久留米絣」の名が知られるようになったため需要が増えていた。福岡県南西部、筑後川左岸の三瀦地域、現在の久留米市・大木町はその中心で、筑後市・八女市・広川町も盛んである。 1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会には福岡県三瀦郡大溝村(現・大木町)から松枝喜代次を含む64名が出品している。内国勧業博覧会は明治期に殖産興業を意図し、政府主導で全5回開催された国内版の博覧会で、陶磁器や染織品などさまざまな工芸品が全国から出品され、その出来栄えを競い、有力な輸出品となりえるモノ作りを育成した。とりわけ陶磁器と染織品は明治期の日本を代表する輸出品であり、久留米絣もまた日本人の技術力や国威を主張する重要な役割を担ったのである。
松枝家における染織作家の誕生 ― 松枝玉記
地場産業としての久留米絣の振興に取り組むと同時に、作家の表現としての久留米絣にも取り組むようになった先駆者の一人が3代目・松枝玉記である 哲哉の祖父にあたる玉記は、1905年 大木町に生まれ、十代終わりの1922年 には、養父・松枝栄の指導で久留米絣の製作に携わるようになった。玉記の時代、松枝家の工房では、玉記の妻・一、栄一の妻・絹枝が仕事をしていた。玉記の最も重要な役割は絣模様の考案である。既に栄のもとで「一日一枚」の絣の図案を日課としていたこともあり、玉記は日々絣模様のことを考えていたようだ。晩年になっても夕食時の話題は絣の模様のことばかりであったという(註2)。模様の考案は「最もむずかしく、そしてやりがいある仕事」(註3)と玉記自身も語っている。 「普通、久留米絣の工程では一に手くびり(絣糸の括り)、二に染(括った糸の染)、三に手織りの順で大切ですが、それらはすべて技術で、時と共に熟練するものです。そんな技術を生かすも殺すのもまた新しい技術を開拓するのもデザインといえます」(註4)。 30工程にも及ぶ久留米絣の仕事に対し、その一つ一つの工程の困難を承知の上でなお最終的には、いかに独創的な絣模様の世界を築き上げるかが、作家の使命であることを認識していた―そこに松枝玉記の近代性、作家性が窺われるのである。 久留米絣の技術は、1957年に国の重要無形文化財に指定されるが、同年、松枝玉記は第4回日本伝統工芸展に出品し、本格的に作家としてのスタートを切るのである。
松枝玉記の世界 ― 歌の心を模様にする
昭和初期の久留米絣最盛期、年産は約200万反であったといわれている。当時の主流は幾何学傾向の柄で、つけ足しのように具象的な模様が加えられていたと玉記は回想する。 しかし玉記は60代半ば頃、「柄に想いをこめてみたい、単なる幾何学図形の組み合わせではなく、情緒を主にし、テーマのある柄を作りたい」という思いが内から湧き上がってきたという。その情熱は1970年代以降の玉記の作品に顕著に窺うことができる。 その一つ《風と光》(1974)では、葡萄の房と葉を組み合わせた大柄を、交差する縦横の直線と組み合わせ、その合間に白い矩形の絣模様がひときわ光り輝くように散らされている。《献穀》(1976)は玉記が工夫した水色に発色する淡藍を用いて濃藍とのコントラストをつけながら段熨斗目と稲穂モチーフを組み合わせた吉祥的な文様世界。小夜子が哲哉との婚礼の折、振袖に仕立てて披露している。 文学性豊かな玉記はとりわけ和歌に親しんだ。新年歌会始めの御題からヒントを得た作品に、波の曲線表現が独特の動きを生んでいる《島》(1981)などがある。 自然の情景が歌になり、歌が絣の模様になる。そうした〝詩情性〟は哲哉の作品世界にもまた違った意匠で受け継がれていく。
(上) 松枝哲哉作 2点とも 久留米絣 「輝映」、「祈り」
(下) 松枝哲哉作 2点とも 久留米絣 「十字絣」、「山路」
良い水、美しい発色を求めて
現在の松枝夫妻の工房「藍生庵」は玉記の号「藍生」からとったものである。玉記の時代には三潴郡大木町で制作していたが、良い発色のための良い水を求めて、松枝夫妻は1990年 に現在の福岡県久留米市田主丸町竹野に工房を築いた。 藍甕の水、糸を洗う水に鉄分などが混じることは、天然染料を用いる作家にとって、時に致命的ともいえる発色の差をもたらす。玉記は、松枝夫妻に水の良い場所へ工房を移すことを勧め、一緒に場所を探し歩いて見出した。 但し、地場産業として一族で絣を営んできた人々が、わざわざ仕事場を変えて仕事を続けるという例は余りなく、当初は周囲にいぶかしく思われたりしたようである。しかし常に良い仕事を求めて最善を尽くす姿勢こそは、松枝家の家風といってよいだろう。
淡藍を活かした自然の形象 ― 松枝哲哉
1955年(昭和30年)、三潴郡大木町に生まれた5代目松枝哲哉は、玉記の指導のもと中学生の頃から藍の管理や染に携わってきた。 藍を用いて模様を表現する大きな魅力は、藍に無限の諧調が存在することである。濃紺と白、および紺と白の糸の交差によるグレー調以外に、藍の濃度(明度)を調節したブルーに染めた糸を用いることができる。 玉記の作例にも水色を発色する淡藍の活用は見られるが、哲哉もまた中間的な藍を効果的に配することで、現代的で爽やかな文様表現を実現している。
2010年(平成22年)、第57回日本伝統工芸展で日本工芸会会長賞を受賞した《久留米絣着物「遥光」》では、星空にたなびく銀河をイメージさせる意匠において、淡藍が見る者の視線を導くポイントに用いられている。 この作品のみならず、哲哉の制作テーマは工房周辺で日々目にし、感じる光や空気、豊かな自然を半具象的な絵絣で表現することである。1980年代半ば、自身の絣を展覧会で発表し始めた当初は幾何学的な文様を手掛けていたが、当時からの緻密さが、現在の絵絣にも窺われる。玉記は多様な絵柄を、メリハリを利かせつつ高密度で織り込む作風であったが、対照的に哲哉の文様世界は、緻密ながらも全体に柔らかく風が揺らぐようなロマンティックな優しさを示している。
藍のリズムをダイナミックな文様で奏でる ― 松枝小夜子
1956年 熊本市に生まれた松枝小夜子は、「紬縞織・絣織」の人間国宝・宗廣力三が主宰する郡上工芸研究所に学び、1982年には日本工芸会西部工芸展等に出品し始めている。 3年後、小夜子は祝福されて松枝家に嫁ぐが、当初は作家として舵をきるのは一家に一人という風潮もあった。人一倍家族を大事にする玉記ゆえの和を重んじる配慮もあったであろう。しかし玉記の傍でデザインの仕事を手伝っていた小夜子に、ある日玉記が「あんたもモノ作りとして生まれて来とるんだな」と声をかけたという。息子崇弘からも「お母さんは創らないと」と励まされた。一家の仕事を担いながら、自分の制作にも精力的に取り組むことができたのは家族の理解と協力の賜物でもある。 その作風は、大胆な幾何学パターンがもつ力強さをリズミカルな経緯絣の模様と藍の諧調で力強く表現していくもの。2012年 第46回日本伝統工芸染織展では《絣織着物「春風花」》で日本経済新聞社賞、2015年 第49回展では《久留米絣着物「水鏡」》で奨励賞・山陽新聞社賞と、奇しくも筆者は二度、この作家の受賞に審査員として立ち会っている。いずれも着物のフォルムを生かした大らかな構成はこの作家の伸びやかな世界観を示している。その爽快感を支えているのは、織の最中にも模様のずれを厳しくチェックし、経糸を微調整する、細部まで行き届いた経緯絣の技術であり、白の抜けの良さ、藍色の冴えである。また、絵画のように絵具でイメージを描くのでなく、糸そのものが築き上げていく織物ならではの模様の強さは、それを見る人、纏う人々にも伝わってくる。
松枝家と久留米絣の未来
1976年(昭和51年)、重要無形文化財久留米絣技術保持者会は保持団体として認定され、松枝家は玉記以降、その会員として研鑽に努めてきた。2015年、哲哉はその保持者会の会長に就任、作り手たちとの対話を大事にしている。一方でこの8年、小夜子、息子崇弘とともに地元の小学6年生を対象に絵絣体験の指導・普及を継続してきた。「3度の飯が2度になっても、絣作りは辞めんで欲しい」と小夜子に告げた玉記の願いは、作り手の意欲と、受け手の強い関心によって今後も継続的に果たされていくことであろう。 天然藍と緻密な絣模様で作られた久留米絣は、長く着るほどに発色の良さを示し、着心地の良さも増す。200年にわたり育まれてきた久留米絣の魅力を現代の文様世界でみせる松枝哲哉・小夜子の着物は、我々に藍や木綿の魅力を再発見させ、自然とともに生きることの充実感を教えてくれるのである。
註1 2013年3月15日発行の『和織物語』以来、筆者2度目の松枝論稿である。
註2 松枝夫妻への筆者インタビュー、於松枝夫妻宅、2016年2月4日。
註3 谷口治達『藍に生きて 松枝玉記聞書』西日本新聞社、1985年、30頁。
註4 前掲、66 ― 67頁。