プロフィール
七世 中村芝雀氏、「真女形」として現在は歌舞伎座を中心に活躍しています。 1955年、四世 中村雀右衛門(人間国宝・芸術院会員)を父に、七世 幸四郎の娘を母に持ち2人兄弟の次男として生まれました。 生まれたときから、正確に言えば胎児のときから、歌舞伎の音に囲まれて育ち、同期には、坂東三津五郎氏、中村勘九郎氏、中村時蔵氏、などがいらっしゃいます。5歳のときから本格的に「日本舞踊」「長唄」「清元」「鳴り物」「茶道」の稽古を開始。 翌年の1961年2月には歌舞伎座の舞台に立ち「一口剣」の村の子、廣松で大谷廣松を名乗り初舞台を務めました。その後、父の「雀右衛門」襲名に伴い、1964年9月には歌舞伎座「妹背山婦女庭訓」のおひろで早くも「七世 中村芝雀」を襲名しました。初舞台の口上には赤座布団
芝雀氏には初舞台の口上で忘れられないエピソードがあります。 皆様よくご存知の通り、歌舞伎座の口上では、舞台上に関係各位が集まり一堂が頭を下げた状態で1人ずつ「お祝い」を述べていきます。「口上」と言えば、着物、裃、鬘が付き物です。 これが廣松君(芝雀氏の芸名)にとっては試練の始まりでした。廣松君はちょっと他の子より頭が大きかったのです。そのお蔭で必然的に鬘も同年代の子より大きくなってしまいました。 関係各位のおじ様たちが挨拶している間、お辞儀をした状態で頭を支えるのがとっても辛い。それでもめげずに頑張りました。何度と無く挨拶の練習しました。が、2~3人の挨拶が終わるか終わらないかの内に手がプルプル震え、支えきれなくなってきます。必死に耐える廣松君。でも、ついには耐え切れずおでこから舞台上へドテッと陥落。そのまま身体が起こせない状態でにっちもさっちも動けなくなります。 「これはしたり!! 」と番頭さんやら身の回りのお世話をする人たちが考えあぐねた末、緋毛氈と同じ色のおでこ枕を作り、最初からそこにおでこをついて頭を支え、おじ様たちのご挨拶が終わるのを待つ事となりました。 そうしてもらっていても、最後に自分がご挨拶するときに身体を起こすのがとっても至難だったという語り草が残っています。(詳細は5月公演で同じ楽屋の三津五郎氏が話してくださいました。)女形は自分の役回り
初舞台の口上で回りの皆さんにお手数をお掛けした廣松君も3年後には女形の名跡「中村芝雀」を名乗ります。まだ子役で、女形なのか、立ち役なのかが決まらない当時から家の芸と言う事あったのかもしれませんが、芝雀氏の中では「『女形』になる」と言う自覚がしっかり芽生えていました。そのため男子校で育った芝雀氏でしたが、女の人の仕草や身のこなしの研究には余念が無く、師匠の父親をまず手本として学んでいきました。
中村芝雀氏
心が大切
現在、48歳を迎えた芝雀氏は心身ともに充実期に入っています。
歌舞伎は「地の芸」が大切と言い、「身に付く」「役が手に入る」と言う状態になる事が理想と言われています。
「舞台の上に立ってなにかの役を演じる時、仕草やお芝居を通して表現するだけではなく、台詞も無く仕草も無く立っているだけでその役に成り切れたときが本当にその芸が身に付いたと言える時」なのだそうです。それを今、芝雀氏も毎日舞台を務めながら捜し求めています。