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「大島紬の歴史を辿る」~龍郷柄・秋名柄・西郷柄~|和織物語

「紬」の中で東西の横綱と言われる「結城紬」と「大島紬」。 シュッシュという心地良い衣擦れの音と軽快な裾裁き。 着物でありながらスーツ感覚で着られ、雨に強く、皺にもなりにくい。緻密な絣合わせと織の技術で作られる着心地の良いお洒落な着物。それが「大島紬」です。 その中で、着物好きの方が今も憧れ、現代感覚にマッチし、技術的に作ることが難しく、だからこそ是非一度は着てみたいと言われる華やかな印象の「龍郷柄」、そして全体的に落ち着いた雰囲気にポイントの十文字が入っているお洒落な「秋名バラ柄」。これらは女性物の最高位と言われています。一方、男性物の最高位は西郷隆盛の名を冠し、どの製作工程でも最高の技術が要求される「西郷柄」です。 これらは、名付けられて百年以上の歳月が経っても色褪せない格調と完成された気品をたたえています。蘇鉄の葉とハブの背模様を図案とした「龍郷柄」はその華やかで大胆な印象からパーティなどでお洒落着に、全体的に黒っぽいザルの格子柄に十文字が交差した「秋名バラ柄」はその味わい深い華やかさからお食事会などの街着として、遠目には無地、近寄れば細かい格子の中にさらに緻密な絣柄が施されている「西郷柄」はシャープにかっこよくスーツ感覚で男女を問わず着こなしていただけます。着物はもちろん、長羽織としても、また大島独特のシャリ感を活かした塵よけコートに仕立てるのも素敵です。 現代の匠達が力を合わせた大島紬を是非一度ご覧ください。

「龍郷(たつごう)柄」とは

この柄は、江戸末期に薩摩藩から「奄美大島を一番良く表現した大島紬を献上せよ」との命が下り、図案師が月夜に庭を眺めていた時にたまたま一匹の金ハブが月の光で背模様をキラキラと輝かせながら青々とした蘇鉄の葉に乗り移ろうとしたその一瞬の神秘的な美しさを図案化したことから始まっています。 その後これが評判となり、村人たちが競ってハブの背模様と蘇鉄の葉を図案化し、さらにそこに奄美大島の美しい自然の風土を抽象的に加えて泥染め大島紬を作り続けました。1907年頃に、この泥染め大島紬は作られていた村の名前から「龍郷柄」と名付けられました。今でも熟練した織手しか作る事の出来ない貴重なものとなっています。

「秋名(あきな)バラ柄」とは

秋名バラ柄の「バラ」は琉球語でザルを意味します。東シナ海に面した「秋名」地区で琉球服属時代に生活用具の竹で編んだ「サンバラ」と呼ばれるザルをモチーフにして作られていったものがこの柄です。車輪梅と泥で染めた黒い地糸と絣糸を使用し、黒のザルの格子柄に十文字を交差させた模様を中心としています。全体的に黒を基調に落ち着いた雰囲気が特徴で、近づいた時に見える格子柄の中の十字がアクセントとなり、味わいのある深みと上品な華やかさを演出しています。
大島紬 手前:龍郷柄 / 中:西郷柄 / 奥:秋名バラ柄 大島紬 手前:龍郷柄 / 中:西郷柄 / 奥:秋名バラ柄
この柄も百年以上続く代表的な柄で、長羽織や塵よけコートとしても、今でもとても人気があります。

「西郷(さいごう)柄」とは

格子の中にさらに細かい絣柄が入る緻密で複雑な「西郷柄」は、分業体制で作る大島紬の製作工程のすべてに最高の技術力が必要とされます。この図案は、太平洋に面している「戸口(とぐち)」や「赤尾木(あかおぎ)」で薩摩藩支配時代にはすでに生まれていたと言われ、明治時代の半ばに締機が導入されてからは更に細かい絣技術が生み出されました。大正五年頃、『技術的にも品質的にも素晴らしい』ことから、維新の三傑の一人、西郷隆盛の名前を冠して、集落毎に「戸口(とぐち)西郷」「赤尾木(ホーゲ)西郷」と呼ぶようになりました。 西郷隆盛と奄美大島との縁は、1858年に始まった「安政の大獄」で西郷が薩摩藩を追われ錦江湾(きんこうわん)で入水自殺し助けられ、奄美大島に謫居させられた時からです。西郷はその後、龍家の愛加那という大島紬を織る美しい島娘と結ばれ、一男一女をもうけ、またその人柄から島民の力にもなりました。西郷の名は、男性物の最高技術の結晶と言われる大島紬に脈々と生き続けています。

草木染の中で最高と言われる堅牢度を誇る大島紬 ― 金井一人氏の染色へのこだわり ―

大島紬は「先染めの織物」です。先染めの糸は不純物が取り除かれるので、糸自体の密度が高く強い糸になります。また泥染め大島紬は「車輪梅」と「泥」で120回に及ぶ染め工程を施しますから『堅牢度は草木染めで最高』と言われています。 特に銀座もとじが依頼している金井一人氏の染色工房では、昔ながらの作業工程を守り、その堅牢度は島一番です。まず「車輪梅(しゃりんばい)」の幹と根を小さく割り、大きな釜で14時間以上煮つめます。こうして出来た茶褐色の液汁を常温にしてから、器に汲み出しここに糸を入れて手でしっかり揉みほぐしながら液汁を何度も注いで最低30回は繰り返し染めていきます。その後、水で洗い、丸一日かけて乾燥させます。翌日は、泥染め専用の鉄分を多く含む泥田で1時間以上かけて一枷かせずつ揉み洗いして丁寧に染めていきます(決して漬け置きはしません)。 その後、工房内に持ち帰り水で洗って干します。この工程を一セットとして、四セット繰り返すのです。120回を超える車輪梅染めと4時間以上に及ぶ泥染めの繰り返しで、車輪梅のタンニン酸と泥田の鉄分が反応し、糸は柔らかくこなされ、化学染料では出せない独特の渋い黒の色調に染め上がります。

地糸染めの長田宮博氏

奄美大島 龍郷町と龍郷湾 奄美大島 龍郷町と龍郷湾
どの大島紬を作るのにも必要不可欠で、絣糸と同じ割合もしくはそれ以上に使われている糸がこの地糸です。 特に黒の地糸は『絣、織りの良し悪しの決め手』となり「糸の細さ」「毛羽立ちのなさ」そして「深みのある黒色であること」など、かなり厳しい条件が課されています。
この染めを18年以上続けている職人が長田宮博氏です。彼が染める糸は「黒色に深みがあり風合いも良く、織り易くて毛羽立ちが一切無い」と織子さんの間で評判です。彼のこだわりは金井氏と同じく決して手を抜かない「揉み込み染色法」。さらにもうひとつのこだわりが彼の作る糸を更にしなやかで艶やかにします。 そのこだわりとは、車輪梅染めと泥染めで仕上げた糸を春夏秋冬問わず、流れの綺麗な小川の水でしっかり洗うのです。洗い方も半端ではありません。小川の石の上に四角いゴムマットを敷き、一枷ずつ小川の水に浸し軽く絞ったら、そこに片側10回、持ち替えて反対側を10回、全身の力を使って叩きつけるのです。20回叩きつけると小川で綺麗に洗います。この作業を繰り返し一枷につき合計60回叩くと終了です。 「なぜこんな重労働を続けるのですか? 」と問うと「緯糸には油が、経糸には糊が付いていて、その上に私のところでは車輪梅や泥に浸けるから目に見えない泥の粒子や細かいゴミが付くでしょ。マットで1回叩いたら手で3回洗うのと同じくらい汚れが取れるんだよ。それに叩くと糸がまっすぐになって強さもしなやかさも増すしね。良いものを作るには手間をかけないとね。」と答え、強烈な陽射しの下で黙々と作業を続けていました。「彼がいるから僕の染める絣糸も生きるんだよね」と金井氏は言います。 「こういう職人がいてこだわり続けるからこそ技術の高い良い大島紬が出来るのだ」という現実に最高技術を持つ作り手を守っていくことの大切さを改めて思いました。

大島紬は人から人へ

大島紬の技術は古より人から人へと伝わり、明治時代には、完全な分業体制となり、専門分野の職人が最高の技を競い合い、大切に作って来たからこそ、品質が守られ100年以上続いて来たのです。 特に細かい図案に基づく絣技術が今のグラフィックデザインに大きな影響を与えたこれらの柄は、職人たちが切磋琢磨し合って今日まで技術を向上させ受け継いで来ました。
大島紬 「角通し柄」 大島紬 「角通し柄」
それを今も作り続けるため、昔ながらの工法にこだわり、歴史を汚すことのないように頑張る職人達。 これだけ長い間生き続け、今もなお目に新しく素晴らしいと言われているものは他にありません。 この最高の技術とチームで作った「大島紬」の代表作の数々を、ぜひお手に取ってご覧ください。

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