「龍郷(たつごう)柄」とは
この柄は、江戸末期に薩摩藩から「奄美大島を一番良く表現した大島紬を献上せよ」との命が下り、図案師が月夜に庭を眺めていた時にたまたま一匹の金ハブが月の光で背模様をキラキラと輝かせながら青々とした蘇鉄の葉に乗り移ろうとしたその一瞬の神秘的な美しさを図案化したことから始まっています。 その後これが評判となり、村人たちが競ってハブの背模様と蘇鉄の葉を図案化し、さらにそこに奄美大島の美しい自然の風土を抽象的に加えて泥染め大島紬を作り続けました。1907年頃に、この泥染め大島紬は作られていた村の名前から「龍郷柄」と名付けられました。今でも熟練した織手しか作る事の出来ない貴重なものとなっています。「秋名(あきな)バラ柄」とは
秋名バラ柄の「バラ」は琉球語でザルを意味します。東シナ海に面した「秋名」地区で琉球服属時代に生活用具の竹で編んだ「サンバラ」と呼ばれるザルをモチーフにして作られていったものがこの柄です。車輪梅と泥で染めた黒い地糸と絣糸を使用し、黒のザルの格子柄に十文字を交差させた模様を中心としています。全体的に黒を基調に落ち着いた雰囲気が特徴で、近づいた時に見える格子柄の中の十字がアクセントとなり、味わいのある深みと上品な華やかさを演出しています。
大島紬 手前:龍郷柄 / 中:西郷柄 / 奥:秋名バラ柄
「西郷(さいごう)柄」とは
格子の中にさらに細かい絣柄が入る緻密で複雑な「西郷柄」は、分業体制で作る大島紬の製作工程のすべてに最高の技術力が必要とされます。この図案は、太平洋に面している「戸口(とぐち)」や「赤尾木(あかおぎ)」で薩摩藩支配時代にはすでに生まれていたと言われ、明治時代の半ばに締機が導入されてからは更に細かい絣技術が生み出されました。大正五年頃、『技術的にも品質的にも素晴らしい』ことから、維新の三傑の一人、西郷隆盛の名前を冠して、集落毎に「戸口(とぐち)西郷」「赤尾木(ホーゲ)西郷」と呼ぶようになりました。 西郷隆盛と奄美大島との縁は、1858年に始まった「安政の大獄」で西郷が薩摩藩を追われ錦江湾(きんこうわん)で入水自殺し助けられ、奄美大島に謫居させられた時からです。西郷はその後、龍家の愛加那という大島紬を織る美しい島娘と結ばれ、一男一女をもうけ、またその人柄から島民の力にもなりました。西郷の名は、男性物の最高技術の結晶と言われる大島紬に脈々と生き続けています。草木染の中で最高と言われる堅牢度を誇る大島紬 ― 金井一人氏の染色へのこだわり ―
大島紬は「先染めの織物」です。先染めの糸は不純物が取り除かれるので、糸自体の密度が高く強い糸になります。また泥染め大島紬は「車輪梅」と「泥」で120回に及ぶ染め工程を施しますから『堅牢度は草木染めで最高』と言われています。 特に銀座もとじが依頼している金井一人氏の染色工房では、昔ながらの作業工程を守り、その堅牢度は島一番です。まず「車輪梅(しゃりんばい)」の幹と根を小さく割り、大きな釜で14時間以上煮つめます。こうして出来た茶褐色の液汁を常温にしてから、器に汲み出しここに糸を入れて手でしっかり揉みほぐしながら液汁を何度も注いで最低30回は繰り返し染めていきます。その後、水で洗い、丸一日かけて乾燥させます。翌日は、泥染め専用の鉄分を多く含む泥田で1時間以上かけて一枷かせずつ揉み洗いして丁寧に染めていきます(決して漬け置きはしません)。 その後、工房内に持ち帰り水で洗って干します。この工程を一セットとして、四セット繰り返すのです。120回を超える車輪梅染めと4時間以上に及ぶ泥染めの繰り返しで、車輪梅のタンニン酸と泥田の鉄分が反応し、糸は柔らかくこなされ、化学染料では出せない独特の渋い黒の色調に染め上がります。地糸染めの長田宮博氏
奄美大島 龍郷町と龍郷湾
どの大島紬を作るのにも必要不可欠で、絣糸と同じ割合もしくはそれ以上に使われている糸がこの地糸です。
特に黒の地糸は『絣、織りの良し悪しの決め手』となり「糸の細さ」「毛羽立ちのなさ」そして「深みのある黒色であること」など、かなり厳しい条件が課されています。
大島紬は人から人へ
大島紬の技術は古より人から人へと伝わり、明治時代には、完全な分業体制となり、専門分野の職人が最高の技を競い合い、大切に作って来たからこそ、品質が守られ100年以上続いて来たのです。
特に細かい図案に基づく絣技術が今のグラフィックデザインに大きな影響を与えたこれらの柄は、職人たちが切磋琢磨し合って今日まで技術を向上させ受け継いで来ました。
大島紬 「角通し柄」