著者:外舘和子(多摩美術大学教授)
一般に、日本の染織界には織の作家と染の作家がいる。前者は織で模様を表現し、後者は染で模様を創り上げる。但し、日本では織物が先染め、染物が後染めと言われるように、織の作家が自ら糸を染め、染の作家は生地を吟味することが多く、両者は染料や生地(素材)を介して日本の布の創造という大きな一つの世界を形成している。
山崎青樹は、型染やろう染、絞り、描き絵などの技法を用いる染の作家だが、父・斌(あきら)から受け継いだ植物染料の研究開発を進めながら織物作家の役割も果たし、さらに日本画の才能も発揮するという、極めて幅広い仕事を成し得た作家である。天然染料、植物染料にこだわりながら、彼はその作品世界をどのように拡げていったのであろうか。
理想郷を求め「草木染」研究に取り組んだ父・山崎斌
山崎青樹の歩みを知る上で、父・山崎斌(1892―1972)の存在は所謂「父親」以上のものである。斌の存在なくして青樹の草木染や染織との関わりは、あり得なかったであろう。
山崎斌は明治25年、長野県東筑摩郡麻績村に臼井忠兵衛の三男として生まれた。五歳で伯父・山崎巌の養子となった斌は、小説を書き、歌を詠み、島崎藤村らと交流した文学青年であり、昭和13(1983)年には雑誌『月明』を同人らと創刊している。
一方で、植物染料による染や手機による織物、手漉きの和紙を復興する運動に昭和初期から取り組んだ。折しも、明治の化学染料の導入によって植物染は衰退しており、また昭和初期の大恐慌により養蚕農家が不況に陥っていた時期でもあった。山崎斌はこの運動を「月明運動」と呼び、植物染料で染めた糸による手機の織を「月明織」と名付けている。
昭和5(1930)年、山崎斌は天然染料による染色を「草木染」と命名し、第1回の草木染月明織展を銀座の資生堂ギャラリーで開催した。同展のポスターは前川千帆が担当し、小説家・島崎藤村や有島生馬、陶芸家・富本憲吉、画家・竹久夢二ら錚々たる文化人が展覧会開催に発起人として協力している。
島崎藤村は、この展覧会の案内状に「信濃工藝研究所のために」という文章を寄せ、「生活と藝術と労働を結びつける」と、山崎斌の仕事にウィリアム・モリスの思想との共通点を指摘している。また富本憲吉は同案内状で「推薦」と題し、「經濟的に弱り切った農村が救はれると言ふ此の運動は確かに美しいものを造り上げたほかに、また別の役目を果たすことになる」と山崎を讃え、美しい工芸がもたらすものの可能性を示唆している。
大正から昭和前期は、広く社会に関心を抱き、民衆の生活に理想を求める志の高い知識層が活躍した時代であるが、青樹の父もそうした一人であった。斌の草木染研究の成果は、著書『草木染』(文藝春秋新社、1957年)などに纏められている。斌の生き方と、残した資料とは、後に青樹の良き道標となっていくのである。
青樹、草木染と染織の道へ
山崎青樹は大正12(1923)年、東京市渋谷区に山崎斌の長男として生まれた。少年の頃から絵が好きだった青樹は、12歳で日本版画協会展に初入選し、また14歳で横山大観に出会い、明星学園中学校卒業後は画塾「煌土社」に学ぶなど、日本画家を志す。
しかし一方で、父の植物染めの研究や染織への展開を幼少期から見ていたこともあり、戦後の昭和21(1946)年、父と共に長野県に転居し、月明手工芸指導所を開設、その2年後には同所に草木染研究所を併設し、草木染と手機の織物の製作を始めている。弟・山崎桃麿や親戚も協力し、山崎家の草木染の世界は展開されていった。
天然染料の美しさを染織に 昭和20~30年代
山崎青樹の染織は、父の仕事の手伝いから始まった。織については草木染の様々な色を用いて糸を染め、縞割や格子の配色などを図面で指示する。手機を織るのは、研究所の仕事を手伝う近隣の女性たちである。それらの縞や格子、無地の紬などは、ことさらに主張の強い意匠ではないが、天然染料ならではの風合いと明快な配色が、布の手触りの魅力と相まって自然の美しさを伝えている。例えば単色の無地の紬が美しいのは、手機のふっくらとした生地と、単純でない微妙な色相が、分かちがたく結びついて光を柔らかく受け止めるからであろう。青樹は父と共に新しい染料の研究・開発にも精力的に取り組んでいった。
昭和31(1956)年、山崎家は知人の勧めもあり、真冬の寒さ厳しい長野県佐久市から、養蚕の盛んな群馬県高崎市に草木染研究所を移している。植物や水に恵まれた高崎の新しい環境で、青樹は昭和33(1958)年から型染も手掛け始めた。当初は伊勢型紙や歴史上の文様を研究し、その再現的な染も行ったが、元来、青樹は日本画家を志していた作り手であり、間もなく写生を基調とした創作的な型紙を彫るようになった。十代で版画を制作していたことも、型紙を彫る上で役立ったことであろう。絵心のある青樹は、糸目友禅やろう染、描き絵の着物など、より絵画的な染織にも果敢に取り組んでいく。あるいは摺箔など、染にまつわるさまざまな技法を試行錯誤しながら身につけていった。
昭和34(1959)年、青樹は、銀座・中央公論画廊で初個展を開催し、以後、コンスタントに発表を続けていくのである。
植物の生命力を“色”と模様に 昭和40代~50年代
織物においては、昭和30年代後半から、しばしば横段の色のグラデーションを紡いだ着物を手掛けている。《虹彩》と名付けられた着物もあるほど、カラフルな虹色を草木染の色糸の横縞で織り上げた着物をはじめ、昭和40年代には、裾と袖の一部などに多色やグラデーションの幅広の横縞を入れたものなど、穏やかで聡明な色の諧調で見せる織物を制作していくのである。
一方、自然を写生することから始める青樹独自の植物模様の世界は、特に昭和50年代の染の作品に開花した。
まず、作家が手描振袖や手描訪問着などと呼ぶ、ろう染や、墨の線描に色挿しを加えるなどの技法による着物。
(上)山崎青樹作 格子着尺「萌葱白一寸弁慶織」、 縞着尺「薄茶地海老茶一本独鈷」 2点とも 638,000円、木綿着尺「かつを縞」 298,000円 (下)山崎和樹作 経縞着尺「千筋(苅安)」 538,000円、経縞着尺 広幅「千筋(苅安、梅、夜叉附子、椋、楊梅、白樫)」 558,000円 ※価格はすべて税込、お仕立て上がり価格となります。
青樹は日本画においても昭和40(1965)年、第25回日本画院展に出品し、以後、出品を継続したように、画家としての修錬も怠らなかったが、その観察力と描写力は染色にも活かされていく。昭和30年代から描いていた竹や菖蒲などのほか、百合、蘭、極楽鳥、鉄線、ジンジャー、ウコンなど、モチーフの幅も広がっていった。
着物の場合は、裾と袖にバランスよく配するなど、間を重視した構図のほか、葉と花が生い茂るかのように着物全体に大柄で埋め尽くすように描かれたものも見られ、この作家の自然に対する感動の程が窺われる。花だけでなく葉も丁寧に描いているのは、青樹の植物に対する関心の強さと自然に対する真摯な眼差しを示していよう。
型染の着物では、そのオールオーバーな模様の拡がりが一層顕著である。例えば、山崎青樹の中期を代表する一作に、群生するコスモスをモチーフとした型染の着物がある。染料には、やまもも・藍・ラックを使用。コスモスの細い茎は風を孕んで揺れ動きながら、右裾から左肩へと競うように伸び、その生命力を力強く主張する。花は、赤く染められたものと線のみで表現されたものが組み合わされて意匠上のコントラストを生み、茎や葉と絡み合いながらコスモスの強さとしなやかさが表現されている。
昭和52(1977)年、山崎青樹は草木染の技術者として、また染織作家として群馬県指定重要無形文化財保持者に認定された。
植物染料の探求、暈しの表現 昭和50年代末以降
昭和57年、長男・和樹(1957―)が研究所を手伝うようになり、草木染研究もさらに進んでいく。昭和61年には、薬草として知られる益(やく)母草(もそう)、メハジキの試験染の最中に偶然、緑染を発見している。クズ、センダン、エンジュ、キハダ、ネムノキをはじめ、後には約50種の植物の葉によって緑染が可能であることを見出していった。
通常、染色の緑色は、藍に黄色を発色する染料を重ね染めによるもので、既に平安時代の『延喜式』に、藍と刈安を用いた緑色の染め方が記されている。重ね染めによらず、灰汁で緑の生葉を煎じ、単独の植物から緑色に染色する「緑染」は、染色の常識を覆す発見である。一口に「緑」といっても、多種多様なトーンの緑があり、重ね染めに拠る場合も染料の種類や条件によって異なるが、青樹の緑染も、染織における新しい緑色の創造であった。今回もとじの展示会に並ぶ無地や縞、あるいは緑と白の格子の反物で、青樹の緑染の一端が確認できるはずである。
作家は、制作の上では、昭和50年代末以降、型染や手描きの染のほか、いわゆる辻が花染を研究し、独自の意匠で絞りと描き絵の着物を創り出している。絞りや暈しにより、色の柔らかさが表現され、植物模様も情趣に富んだものとして表現されていく。染料の科学的研究と染織表現の探求とは、同時並行的に進行していくのである。
青樹が求めた世界 ― 植物に内在する色の力を染織表現へ
山崎青樹は一貫して植物をモチーフにし、生涯を通じて多種多様な染織技法を手掛けた。それは様々な植物をつぶさに描き分けることのできる画力や、手先の器用さからというだけではなかろう。作家は恐らく様々な自然の植物に魅せられ、植物から得られる染め色の得も言われぬ美しさをいかにしたら伝えられるのか、ありとあらゆる手段で試したのではないか。
平成6(1994)年には、高崎市染料植物園の開園記念として、山崎青樹展が開催された。この施設は、日本で唯一、植物とそれから得られる染料とを照らしながら見学することの出来る植物園であり、展示施設が併設され、現在も染織の多様な展覧会が開催されている。
平成22(2010)年1月、山崎青樹は86歳でその生涯を閉じたが、草木染の研究成果は、『草木染日本の色』『草木染日本の縞』『草木染型染の色』『草木染百二十色』など多くの著書に纏められている。青樹が染料用として生涯に手掛けた植物はおよそ五百種にも及ぶ。
現在は息子・和樹が、草木染研究所柿生工房(川崎市麻生区 1985―)を主宰し、染料の研究者として、また染色家として、草木染の研究と普及に努めている(註)。植物の外観の色や形の美しさと共に、植物の内側にある色の力は、今後も山崎家の人々によって引き出されていくに違いない。
註 2016年6月29日、工房にて山崎家について和樹氏に取材し、また多くの貴重な資料を提供して頂いた。