著者:外舘和子(多摩美術大学教授)
独特の型染技法「木版摺更紗」
日本では、型を使って模様を染める代表的な技法に「型絵染」「江戸小紋」「長板中型」「紅型」などがある。型紙で糊防染することで染め模様を築いていく間接的な手法であり、従来、型染で認定されてきた重要無形文化財保持者(人間国宝)たちは、これらのいずれかである。
一方、2008年に重要無形文化財保持者の認定を受けた鈴田の指定技法「木版摺更紗」は、木版と型紙を併用する。まず目の詰まった掌大の木材ブロックの木口で凸版を作り、直接模様の輪郭や骨子を墨で捺染し、さらに、木版に合わせて型紙に模様を切り抜き、型紙を孔版として顔料や染料を直接色摺りしていく。必要に応じて凸版木版で赤い線文様を加えることもある。
つまり、描絵や友禅などに比べ、型を使うという意味では間接的な技法だが、防染ではなく捺染であるという点では、より直接的な手法である。アジアではインド更紗などに同種の技法が見られ、日本には室町時代から江戸時代初期にかけて渡来した。技術は朝鮮半島から伝えられたといわれ、九州では江戸時代に佐賀鍋島藩がこれを育成し献上品として生産している。
型を使う染のうちでも独特の技法である「木版摺更紗」は、鈴田の作品内容、美意識や世界観とどのように関係しているのであろうか。
父・鈴田の技法を受け継ぐ
第58回日本伝統工芸展出品作
木版摺更紗着物「儚花樹(ぼうかじゅ)」
木版摺更紗着物「儚花樹(ぼうかじゅ)」
鈴田滋人は染色作家・鈴田照次(1916~1981)を父に、1954年(昭和二十九年)、佐賀県鹿島市に生まれた。
父・照次は、型絵染の重要無形文化財保持者・稲垣稔次郎(1902~1963)に師事し、新匠会や日本工芸会で活躍。工芸の世界に近代的な個人作家が誕生し始めた草創期の染色家の一人と言ってよい。稲垣はじめ陶芸の富本憲吉(1886~1963)、金工の増田三男(1909~2009)ら工芸の近代を築いた錚々たる作家たちと親しく交流したことが、鈴田家に残された染色や陶磁器、香炉、書画などの調度品からもうかがわれる。
父・照次は、型絵染の重要無形文化財保持者・稲垣稔次郎(1902~1963)に師事し、新匠会や日本工芸会で活躍。工芸の世界に近代的な個人作家が誕生し始めた草創期の染色家の一人と言ってよい。稲垣はじめ陶芸の富本憲吉(1886~1963)、金工の増田三男(1909~2009)ら工芸の近代を築いた錚々たる作家たちと親しく交流したことが、鈴田家に残された染色や陶磁器、香炉、書画などの調度品からもうかがわれる。
しかし、技法の解明からわずか10年足らずで惜しくも父は他界してしまう。鈴田滋人は武蔵野美術大学で日本画を学んでいたが、迷う余地もないまま、家業を継ぐこととなった。
創作性の獲得
鈴田は父の生前から繁忙時などに作業の手伝いをする機会はあったため、染料・顔料・薬品の扱い方などに試行錯誤しながらも、木版摺更紗の技術は着実に習得していった。
しかし作品の創作性は、技術力とは別次元の問題である。「10年くらい、父の図案は見ることができませんでした」と作家は言う。
しかし作品の創作性は、技術力とは別次元の問題である。「10年くらい、父の図案は見ることができませんでした」と作家は言う。
木版摺更紗九寸帯 左「水仙」
右「花薊(はなあざみ)」
右「花薊(はなあざみ)」
例えば、「おだまき」という植物をモチーフにした文様の着物を、父は1974年の第21回日本伝統工芸展に、鈴田滋人は1983年の第30回展に出品している。父のおだまき文はジグザグに揺らぎつつタテに流れるようなリズムを刻むもの。
一方、鈴田はおだまきの花を幾何学的に整理し、広義の菱形を連続文様にする要領で着物全体に展開させている。同じモチーフながら、その解釈も処理も異なっているのである。技法は同じでも異なる表現を——作家の作家たる所以である。
版のリズムで空間を創造する
木版摺更紗九寸帯「梅花」
型を作ることは整理することである、と型染の作家は異口同音にいう。自然を写生したものをデフォルメし、単純化し、自らが発見した美しさのエッセンスを抽出していく。鈴田は着物の形をした小下図を描く以前の、スケッチからモチーフをデザイン化する工程にこそ時間をかけるという。作家の生命である創作の最初の段階がそこにあるからだ。
A4程度の着物型小下図だけでなく、実物大に拡大した部分下図も作成する。型染は、作業を進めるうえで、計画性や正確さも必要である。部分のスケッチ—小下図から、等身大の着物サイズの空間へと段階的に制作を進めていくのである。
これまでの鈴田の作品を振り返ると、着物大の空間性を創る要素は少なくとも二つある。一つは、木版摺模様の並びに配慮しつつ、着物というかたちを大きく色面分割して変化をみせる方法。わずか二色で面を大きく分割するだけでも、互いの色面の美しさを引き立て合い、着物という空間に変化が生まれる。
もう一つは、版を打つ位置と、打たずに残す余白との関係で、空間を築く方法。最初の版と次に打つ版の間合いの取り方により、音楽などと同様、作品は異なるものになる。さらには同一の版でも、反転させて打つなど、版の上下左右を変えて打ったり、版の一部をわずかに重ねて打つことでも、文様に変化を生むとともに空間的にも様々なリズムや奥行きが形成される。
前述の日本伝統工芸展受賞作もそうした版の扱いにより、ある秩序の中にも変化に富んだ空間的な文様構成が評価されたものであろう。
鈴田滋人は、このような広大な色面分割と版打ちのリズムによる空間形成との両方を巧みに組み合わせて着物を制作しており、とりわけ後者の要素、版打ちにおいて独自性を発揮してきた。
型を、いわゆるパターンの繰り返しのために、なかばフォルムに関係なくひたすら均一正確に連続させて用いるというのではなく、いわば手描き友禅の作家が絵筆を扱うがごとく、着物全体のフォルムを意識して木版を自在に扱うという型染なのである。
現代を象徴する実材表現の工芸作家
従来の産業的な型染や職人的な木版摺更紗の世界とは異なり、鈴田滋人は自身で図案を考案し、制作の中で版打ちのリズムを判断し、決定し、コントロールすることで創作に至る。鈴田のような染色作品は、自分で直接素材と向き合い、少なくとも表現の核となる部分は自分の手で遂行するという実材表現の作家の登場以来のことである。富本憲吉や稲垣稔次郎らが大正以降に切り開いてきた実材を扱う工芸作家の姿勢は、父・鈴田照次を経て鈴田滋人に確かに引き継がれている。
木版摺更紗着物「松景」プラチナボーイ
①スケッチ ②デザイン ③木版作成 ④型紙作成
⑤生地張り・寸法書き・印付け
⑥墨による地型版打ち ⑦型紙による色摺り
⑧紅柄による上型版打ち ⑨糊伏せ・地染
⑩蒸し・洗浄 ⑪乾燥・仕上げ
これらの工程を経た布地を仕立てに出す。鈴田は基本的にそれらをほぼ一人で遂行する。
例えば青花の線で版の位置を記してしまえば、版打ちは第三者に任せてもよさそうである。
しかし鈴田は自ら彫り上げた木版ブロックを全身の体重をかけるようにして一か所ずつ自身の手で押していく。「一つずつ押しながら空間を確認する」のである。2000回、3000回と押す中で、場合によっては、先に描いておいた青花の印より模様が増減することもある。制作を進めていく中で、文様の空間性が当初の想定より混んでいる、あるいは空いていると判断した場合には調整するのである。
「実際にやってみることで作業から教えられる」と作家は言う。その経験はまた、作家の中に蓄積され、次の作品にも活かされていくことであろう。工芸の本質が<素材や技術に根ざした実材表現>であるならば、鈴田はその代表的な作家の一人である。
「プラチナボーイ」を染める
日本の染色作家にとって生地は単なるキャンバスでなく、染料や顔料とともに作品の風合いを左右する重要な素材である。墨や染料・顔料の吸い込み具合など、染めてみなければわからないことがある。木綿はさらりとした表面の良さを生かし、紬は独特の凹凸を活かす。この度の個展で鈴田は、銀座もとじオリジナルの白生地「プラチナボーイ」を初めて染めた。プラチナボーイは雄の蚕のみの糸を使って織り上げた布。雄の蚕がつむぎだす極細の絹糸は、蚕の持つ栄養とエネルギーのすべてがミクロの糸に凝縮され、生地に密度のある艶やかな風合いを生むと同時に、しなやかで腰があり皺になりにくいという着用時の長所ももたらす。型を使う染は精度を必要とするが、プラチナボーイは制作の過程で生地に伸び縮みの狂いがなく、木版摺更紗に適した布であることも明らかとなった。
鈴田はこの生地に松の葉や枝をモチーフにデザインした木版を三種用意し、得意とする版打ちのリズムで知的な品格ある空間構成に挑んでいる。衣桁にかけて見ている折には、一見大胆にみえる模様世界も、「着てみるとしっくりくることが多い」と作家はいう。着物という直線構造のシンプルなフォルムならではの良さであろう。
銀座もとじプロデュースのもと、日本の養蚕技術のを結集して作られた生地プラチナボーイと重要無形文化財保持者・鈴田滋人による木版摺更紗との出会い。
空間性豊かな文様世界は着る人の動きによっても、さらに魅力を増すことであろう。