そこから地平線のかなたを見つめ玉那覇氏のデザインが始まる 型という有限の中に、はるかかなたまで続くかと思うほどの無限の世界を作り出す玉那覇氏の紅型。読谷村の静かな一角で始まる紅型作りは、何百年の歴史を経ても常に新しい可能性を生みだす。 50年におよび身に付けた紅型の技法は、今も更に更に研ぎ澄まされ、玉那覇氏の手の中から作り出される世界は、私達の心に沁みわたり、心をとらえて離さない 1996年「紅型」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された玉那覇有公氏が、お客様の期待に応え、初めて弊社で個展を行います。 玉那覇氏しか出来ない素晴らしい両面染めの絵羽、もう殆ど作られなくなった藍型の着尺4反、芭蕉布に紅型を染めた帯など普段見られない作品も揃います。また今回の個展では今までは決して受けて来なかった先地での紅型染め、銀座もとじプロデュースのプラチナボーイの白生地に染めていただきました。夏の装いを楽しめる絽の着尺2反、縮緬1反の限定3反で、もちろん店主泉二が選んだ型で染めた玉那覇氏渾身の作品です。 ぜひこの貴重な機会をお見逃しなく。
作品の活きる場所で
具体的なお話もとんとんと進み、「いつか個展の折に出そうと考えて作った作品」も次々と見せてくださいました。和織物語制作のために色々質問をすると、一つずつ丁寧に答えてくださり「僕は耳が悪いから右から聞いてね」「聞こえない部分は息子に通辞させるから」と笑顔で応じてくださいます。その姿からは「人間国宝」と言う固いイメージは全くありませんでした。
今回の個展にはご子息、有勝氏の作品も並ぶことになりました。打ち合せ中にこの個展に合わせて「有勝の落款を作るお許し」が、玉那覇有公氏から下り、これには有勝氏もびっくり。お二人揃ってトーク会にいらしていただくことになりました。工房を辞す時には、お二人並んで外までお見送りくださり、玉那覇先生ご自身からも「6月23日には銀座に必ず伺いますね」と嬉しいお言葉を頂戴しました。
鉄工所の職人から
玉那覇有公氏は1936年(昭和11年)10月22日沖縄県石垣島に生まれました。学校を卒業し石垣島の鉄工所で働き、その後、那覇に出て鉄鋼関係の仕事を探しました。しかし、当時は那覇に親戚もなく、保証人になってくれる人がいません。結局、正社員で就職することができずアルバイトに勤しんでいました。 根っからの真面目、そして頑張り屋。鉄工所の経験もある玉那覇氏の働きぶりを見て、一年後には保証人をかって出てくれる人が現れました。正社員として働き始めた玉那覇氏は、更に責任感を強めて真面目に仕事に取り組みました。「保証人になってくれた人に迷惑はかけられん」といつもいつも心の奥底で思い、他の誰よりも一生懸命に働き、なんでもやらなければと必死でした。中には経験の無い仕事も多々ありましたが、「経験者として雇用」されたので「出来ない」とは口が裂けても言えません。「なんとかしてやらなければ」と遮二無二やっても、周りの先輩達からは容赦なく「もっと早く! 」と叱咤が飛びます。慌てて手を出し「あっ! 」と思う間もなく、重い機械に手を挟まれ、今思い返せばぞっとする程の大怪我を負ったこともありました。それでも当時は忙しさと貧しさから病院にも通えず、自然治癒を待つしかありません。必死で働く日々の中「運命を変える人」と出会いました。 それが紅型城間家14代、栄喜氏の一人娘、道子さんでした。
城間家の一員となる責任
義父の栄喜氏は1942年(昭和17年)に50枚の型紙を抱え、大阪に向かったまま沖縄戦となり、妻子と離れ離れで終戦を迎えました。命からがら沖縄に戻り、たったひとり残っていた道子さんと疎開から戻った息子と共に何もない所からこの50枚の型紙を一筋の力として、紅型一筋で生き抜いた「紅型に関しては全く妥協を許さない」厳しい人でした。
その一人娘の夫となるのです。家の事情が分かっているからなおさら「この人を嫁さんにするには、自分もこの世界の人間にならなければ。そして入ったからには城間家の名前を汚すような仕事は決して出来ない」と意を決して、全く未経験だった紅型の世界に飛び込みます。子供の頃「絵を描くのが好きだった」とは言え、日々の生活に追われ、描く時間は全くありませんでした。まして紅型の専門知識は学んだこともありません。当時、城間栄喜氏は工房を作り、何人か弟子も抱えていました。「すべて公平、身内には厳しく」を実践している義父は、他の人より遅い25歳と言う年齢で飛び込んできた義理の息子に特別な目を向けることは出来ません。玉那覇氏の工房への出入りは「ある程度技術が身につくまではまかりならん」と一切拒絶されました。
この時、城間家には型紙を彫れる人がいなかったのです。玉那覇氏は無謀にも「私がやります」と手を上げます。毎日毎日、自宅で型紙彫りの日々が始まりました。が、思ったように彫ることができません。細い小刀を研ぎ、刃先で前方へ向けて突き彫りする方法は、指先に込める力と集中力が要求されます。鋭利な小刀を研ぐ技術は熟練の職人が持つ勘に近い緻密さが、彫には手先の器用さと精密さが要求されます。しかし玉那覇氏は型紙を彫るのも初めてなら、道具の刃を研ぐのも初めてです。また鉄工所で負った手の怪我が災いし、自分の思いとは裏腹に指先は思うように動きません。自分では彫っているつもりでも、思うように手や指先がついてこず、義父が要求する緻密な型や微妙で繊細なカーブが彫れていないのです。義父には「自分で手を挙げておいてこんな彫も出来ないのか! 」と何度も型紙を突き返されました。弟子として入れない間は、昼間はただただ工房の下働きに徹し、水汲み、掃除などの雑用をこなし、夜は徹夜で型彫の勉強と紅型の勉強に明け暮れました。27歳で結婚しましたが、新婚などと言っている時間は無く、気がつけば数カ月があっという間に過ぎていました。
やっと義父から「これなら使える」と型紙彫の許可が出て、工房の一員に加えられました。それでも猛勉強の日々は続きます。いつも頭から離れないのは「城間家の名前を汚してはならない」と言う責任感でした。
独学の日々の一番の良きアドバイザーは奥様の道子さんでした。子供の頃から紅型の世界に身を置き、家業を手伝い、城間家に伝わる貴重な資料の数々を見て育った彼女の眼や技術は追随を許しません。この貴重なアドバイスを受けつつ、玉那覇氏は紅型に独自の道を開いていきました。
60歳にして琉球紅型の人間国宝に
両面染め着尺絹芭蕉「芒に花文様」
栄喜氏が染めていた両面染めに、続いて、挑んだのも玉那覇氏でした。それも栄喜氏から受けた指導は一回だけ。指導と言うより説明に近いものでした。それを一発で自分のものにして、エッセンスを抜き取り、あとは独学で試行錯誤を繰り返し自分の作品を作り上げたのです。
今では紅型で両面染めをするのは玉那覇氏だけです。
常に常に「今よりも明日を」と思って現状に決して、留まらないのが玉那覇氏の思いそして作品です。
道子さんは良きパートナー
散歩に出る時は必ずスケッチブックを持って出かけます。道に咲く花、沖縄の景色、海の情景など目に飛び込んで来たもので、心に残ったもの、魅力を感じたものはそこでスケッチをして、図案の基本としていきます。玉那覇氏の図案は草花が多く見られます。真摯に生きている姿から受ける命の輝きと躍動感は玉那覇氏を動かし、それを素直に感じるままに図案に落とし込んでいきます。図案と彫の細かさは玉那覇氏が随一と言われています。 図案が出来たら、次は「色挿し」を考えます。この時の色使いは奥様のアドバイスが一番だと玉那覇氏は言います。「幼い頃から紅型の世界で育った彼女の色使いに嘘は無いし、絶対に私はかなわないです。脈々と受け継がれた城間家の歴史は、道子の感性の中に生きています。そこに家に伝わる素晴らしい紅型作品を見て、また父親の作品を見てと、毎日磨かれ続けたその色へのこだわりは、誰も追いつけませんし、かないません。色のアドバイスは的確で、紅型の世界で一番と言っても過言ではないです」と玉那覇氏はちょっと顔を赤らめながら、嬉しそうに誇らしそうに仰いました。 夫婦で手を取り合って玉那覇有公という紅型作家の世界を築いて来ました。この歴史は今、息子の有勝氏に受け継がれて行きます。琉球紅型と玉那覇有公氏
紅型で描かれる文様は、沖縄の草花や生活用具ではなく、日本の本土の植物「松竹梅や雪輪」が多く見られます。紅型の優れた作家たちは、本土(大和)の人々の好みにあう意匠を用いて図案を作り、友禅や中国、インドなどの染色の影響を受けながら独自の世界を作りだしていたのです。紅型の「紅」は一つの特定された色の表現ではなく、色そのものを意味しています。
紅型の命は何よりも型紙の精緻さにあると言われ、図案を型紙に描いた後は、細い小刀の先で前方へ向けて突き彫りする方法で型が切り取られます。鋭利な小刀を使って指先に込める力と集中力で作り上げます。ここで必要になるのが型彫の台になる「るくじゅう」です。これは沖縄の豆腐を長期間陰干しして作ります。他の素材では得られない柔軟性のお陰で、刃の傷跡が残らないのが特徴です。
道具は自分で作ること、伝えられた型紙に頼るのではなく、そこに創意を加え独自の図案を考えて、型紙を新しく彫ります。大豆を水に浸し、すり鉢で丁寧に摺って作る豆汁も、糊の成分の割合と、一度火を通したものを糊状にする度合いも、すべては経験と独自の勘で習得します。糊に含ませる塩の分量も天候に左右されるので、計算や理屈では割り出せないのです。
型紙彫り、型置き、色挿し、隈どり。この隈どりが、全体に深い奥行きと立体感を作り出します。どの工程でも一か所失敗すれば、すべての努力が敗れ去る厳しい世界が紅型作りです。
これらのすべての工程に精通し極めたのが玉那覇有公氏です。型染めをする工芸会の作家さん達でさえ、2週間ほど「研修」と言う形で玉那覇氏の工房へ勉強に来るほどです。
紅型は連続する複雑な模様が深みのあるくっきりした色で表わされます。特に玉那覇氏の作品は、労を惜しまず同じ形の花や葉の一枚一枚に手挿しで何色もの色が重ねられ、濃淡の使い分けがあり、さらに暈しによって幾重にも表情を変えて行くという精緻な仕事を施しているので、出来上がりが違います。
玉那覇氏の作品を見ていると「ちょっと背伸びをして着てみたくなる」という声が聞こえてきます。
「色が引き締まってシャープな感覚」
「型が細かくて、手挿しの部分が多くあるので奥行きと立体感が出ていてとっても素敵な世界」
「心地よい緊張感がある着物や帯ですね」と。
着る人がその着物によって凛とするという玉那覇氏の紅型。 長い年月の苦労を経て、今の境地に至った玉那覇氏の作品を、ぜひご覧ください。