著者:工芸ライター 田中敦子
畳なづく青垣 山籠れる……。
倭建命(ヤマトタケル)が故郷の大和を想い詠った一節を、ふと思い出したのは、向かう先が丹波布の里である兵庫県丹波市の青垣町だからだろう。梅雨時特有の濃く潤った山々は、まさに青い垣根だ。この山深い土地で、江戸から明治の、そう長くはない期間に織られ、流通し、けれど、パタリと廃れてしまった丹波布。幻となる運命だった布が、発見の眼と復興の熱意により息を吹き返し、織り継がれている。その物語を知りたくて、高速道路を走っていく
柳宗悦を魅了した「丹波布」と復興丹波布
数年前に親しい人から一反の丹波布を見せられた。復興丹波布だという。民藝運動のメンバーの中で、染織マスターとも呼ぶべき存在の上村六郎氏を招き、昭和29(1954)年に立ち上げた「丹波布復興協会」の尽力があって制作されたものだった。最近、この反物が私の手元にやってきた。丹波布でふと思い出したのは、銀座もとじ社長の泉二啓太さんのことだった。入社したての頃、仕入れた反物の中にあった丹波布に強く惹かれたという。8年ほど前から、丹波布の産地との取り組みを始め、新しい感覚の丹波布が生まれつつある、とも聞いていた。そうだ、この反物を、啓太さんにお見せしよう。
「これは……」と啓太さんは、身を翻して本棚に走る。運んできたのは、大判の書籍だった。昭和39(1964)年出版の『丹波布縞帳』、著者は、上村六郎とある。限定280部のうちの1冊。中には復興丹波布の端切れが50枚貼られているという。「同じものがあるかもしれませんね」。期待半分、宝探しめいた心地でページを繰っていく啓太さんの手が止まる。果たして同じ縞があった。ぴたりと嵌ったパズルのピース。「こういう反物が当時織られていたんですね。そして、今年はちょうど復興七十年に当たります」と語る啓太さんの言葉は熱を帯びている。なんという偶然。丹波布がぐっと身近に寄ってきた。
丹波布は、植物染めによる茶系、藍系、そして黄と藍の掛け合わせである緑を用いて縞や格子に織り上げる。部分的に織り込まれた絹の緯糸がほの光る。単純で、どこでもできそうなのに、木綿の手紡ぎで手織りで、絹糸が入っている布は他にない。
実は、丹波布には四原則がある。藍染と天然の草木染めで糸を染める。手紡ぎ糸で、紡績糸は使わない。手織りであること。緯糸につまみ糸(屑繭などから引き出した絹糸)を交織する。これは、民藝運動の主導者である柳宗悦氏が、大正末から昭和初期に京都の朝市で「発見」し、選んだ木綿布が原点にある。
(前略)この朝市で私共が見出して驚いたのは、俗に「丹波布」と呼ぶもので、婆さん達は短く、「丹波」と 言っていた。後でよく分ったが、これは丹波国佐治地方で出来る木綿もので、土地では「縞貫」と呼ばれ、緯糸に染めない白の玉糸を、所々に入れるのが特色である。
とは、昭和30(1955)年に柳が執筆した『蒐集物語』の抜粋で、「後でよく分ったが」とあるのは、柳氏が昭和初期、上村氏に丹波布の調査を依頼したことによる。この布が柳氏を驚かせたのは、色の渋さ、織りの温かさ、縞や格子の美しさだったが、かいつまんで書くよりも、彼の言葉を引用したほうが伝わるだろう。
(前略)余り味が豊かで、まるで茶人達が特別に注文して作らせたと思われるほどであった。始めて見たこの布に、大いに心を惹かれ、見かける毎にのがさず買い漁った。この丹波布が京都の朝市に出回るのは、京阪地方の人々がこれを好んで布団表に用いたからである。時には丹前もあったが、多くは掛布団や敷布団であった。それが今は流行おくれとなり、使いふるした古着となって、市に出て来るのである。幕末から明治の始め頃が最も盛に織られたといわれる。
つまり、柳氏が発見した時には、すでに過去の布だったのだ。山深い丹波地方は、実は古くから河川や街道の要衝地として都とつながり、丹波布が織られたのも消費地である京阪に近しかったことが大きい。ただ、自家用ではなく商品だったため、明治維新後、いち早く流通した機械製品の安価な木綿布に凌駕されてしまったのだ。
丹波は寒冷地で、木綿栽培に向いてはいない。おそらく木綿布の需要が高い時代に藩主が奨励して生まれたのではないか、と『丹波布縞帳』で上村氏は推察している。川を下った播州に木綿と木綿布があり、その影響を受けている、とも。茶系は栗の実の皮やコブナ草、ハンノキなど地元の植物で、藍色は紺屋で濃淡に染めてもらう。中でも薄縹が初々しい。養蚕地らしく屑繭を生かした緯糸を交織する。甘撚りの手紡ぎ糸により、単純な平織りで味わい豊かな縞を織り描く。そこに「山野草の風雅」が宿る。
(中略)将来日本の綿布史を編む人は、この布の存在とその価値とを忘れてはなるまい。新名物裂と讃え られる日も来るのではあるまいか。 因に言う。半世紀以上も廃れていたこの布は、近時丹波国氷上郡佐治 近くの大灯寺を中心に、復興が企てられ、再び糸を紡ぐ者、染める者、織る者が力を協せるに至った。
柳氏が初めて丹波布を世に紹介したのは、昭和6(1931)年に発刊された民藝運動の機関誌『工藝』第6号で、これにより丹波布に光が当たって多くの好事家が注目、また、地元の人たちは郷土の布に誇りを持つこととなり、復活への道を切り拓く力となった。
丹波布を育んだ背景にある風土と歴史と
機織りは、耳(両端)が綺麗になるよう、生地幅を意識しながらリズミカルに集中し、しっかりと打ち込みます。
山深い丹波の奥深く、その寺はあった。高源寺は紅葉の寺として知られる鎌倉時代開創の禅寺だ。青紅葉と苔むした石段。別天地に迷い込んだ心地がする。が、この場所にあって、日本で禅宗を最初に移入した博多との繋がりは一方ならず、皇室との縁も深い。目に映る風景では計れない、この土地の歴史。丹波布の集積地だった佐治にも近い。「佐治木綿」の名の由来だ。
このお寺に、上村本とは異なる、復興丹波布の縞帳があるという。駐車場で、大阪民藝館の学芸員であり丹波布を研究している小野絢子さん、丹波布の作家であるイラズムス千尋さんと合流、苔むした石段を何十段と上がって本堂にたどり着く。
織田信長の丹波攻略により焼け尽くされ、江戸時代の再興であるこの寺は、簡素にして趣きがある。ここで保管している縞帳は手製だった。表紙には「無形文化財 丹波布 丹波布技術保存協会」と墨で記され、奥付に金子貫道とある。なぜここに丹波布の縞帳が存在するのだろう。
「金子さんはうちのお寺とご縁があって、それでお預かりしたのだと思います。お位牌もあります」とは住職の山本祖登老師。金子師は、柳の記述にもある大灯寺の住職で、丹波布復興保存会の初代会長だった。もともとは大阪のお寺の住職で、空襲で焼け出され、丹波の高源寺に疎開、その後に近隣の大灯寺住職となった。よそから入ってきた金子師もまた、丹波布に魅せられ、丹波布の復興に大きく寄与したのだった。
「この縞帳にあるものは、王道の丹波布とはまた違いますね」と大阪民藝館の小野さんは注目する。イラズムスさんも、「見るたびに発見があります」と見入っている。きっと多くの試行錯誤があって、丹波布は復興の道を歩んだのだ。時を経て、その賜物は等しく作り手の導となっている。
その晩、城下町として栄えた柏原に移動し、夕食となった。「お城があったということは、交通の要衝だったということですよ」と話す高源寺の山本老師の言葉を思い出す。
ここで柏原の料亭・三友楼の大女将、梅垣恭子さんとご一緒する。その昔、丹波市に隣接する丹波篠山市にある丹波古陶館の丹波布コレクションを受け継ぎ、以来、丹波布の着物を愛用、丹波布を暮らしに取り入れてきた人だ。丹波焼もまた柳が評価した民藝陶器で、初代館長の中西幸一氏は柳との交流もあり、丹波焼の蒐集家として知られている。
梅垣さんは、丹波布の着物でお客様をお迎えするという。地元で生まれた布こそおもてなしだし、何より着心地の良さを実感しているから、と。そして「丹波布は働きものの布ですよ」という言葉が心に残った。この十一月に開催される丹波布ファッションショーでは、梅垣さんもモデルとして登場予定だ。若い世代に丹波布の魅力を伝える試みに、年齢を超えた丹波布のミューズが登場するなんて素敵だ。
伝習生制度と技術保存会で守る「暮らしの中にある布」
左上から、廣内朝子氏、蘆田みち子氏、堀之内美佐子氏
イラズムス千尋氏、丹波布技術保存会技術者協会会長・塚口佳代氏
翌日、「道の駅・あおがき」併設の丹波布伝承館を訪ねた。平成10(1998)年より2年1期で丹波布伝習生を養成している場所だ。館内には、機場、糸紡ぎ場、草木染色室など、充実した設備が整っている。現在は14期生が技術を習得中。始めの一歩は糸紡ぎから。
「丹波布の要は糸紡ぎなんです。まずは均一に糸を紡げること。次は、用途に合わせて太く細く紡げること。自分で紡いだ糸で、次は織りをします」と説明してくださるのは、塚口佳代さん。伝習生の一期生だ。今では「丹波布技術保存会技術者協会」の会長も務めている。技術者協会は15年ほど前、作り手により結成された組織で、学びの場をもうけ、また検品制度を導入し、丹波布の品質向上を目指している。この協会が生まれたことで、品質と生産数が高まったという。
丹波布は、昭和32(1957)年に国の無形文化財として指定を受けている。柳氏たちが認めた稀有な手仕事の布を後世に残すためだ。地元の有識者が立ち上げた「丹波布復興協会」により、地元に潜在する糸の紡ぎ手や織り手を発掘、すでに消滅していた植物染めの技術を上村氏が指導し、丹波布は蘇った。
しかし、担い手の多くが高齢だったことから、なかなか後継者が育たない。唯一の希望の星は、復興丹波布の初期から制作に携わり、その後、「丹波布技術保存会」と名称を変えた組織を実質お一人で支えてきた足立康子氏だった。大阪万博での展示や民藝ブームで、丹波布は認知度を高めたものの、生産が追いつかない。苦しい状況下で、丹波布の制作に打ち込み、丹波布の伝承教室で糸紡ぎや糸染め、織りの指導もしてきた。
そんな足立氏にとって、丹波布伝承館の設立は悲願だった。設立と同時にスタートした伝習生養成の指導にも当たった。当時、足立さんと一緒に講師となった女性6名のうち、現在3名が今も現役で丹波布を制作している。蘆田みち子さん、廣内朝子さん、堀之内美佐子さんだ。
それぞれ、伝習生制度が誕生する以前に伝承教室で足立氏に糸紡ぎや織りを習っていた。それが一転、足立氏とともに指導する立場となった。いわば足立康子ジュニアだ。「まさか自分が指導をする立場になるなんて」と口々に謙遜しながら、「ハイカラなお人でしたよ」「見て覚えなさい、でしたけど、折々ヒントをくださいました」など、八年前に亡くなられた「康子先生」への思い出を語り、思慕を募らせる。足立氏が体調を崩して三年で指導からはずれたあとは、模索しながら講師を務めたといい、数限りない苦労を重ねながら丹波布を伝え続けてきた功労者たちだ。
そして今、丹波布の担い手は30代から80代まで約30人となった。
「後継者は育っていると思います。大切なのは自分の生活を整えて制作する意識でしょうか」と話すのは、高源寺でもご一緒したイラズムスさん。彼女は五期生で、英国人陶芸家のご主人とともに丹波に移住、木綿に興味があって丹波布の作り手を志した。
工房を訪ね、作業を見せていただいた。田んぼの中の古民家で、台所だった土間を染め場にし、続く板の間に高機が二台置かれている。小学生の娘さんが仕事場を通って出入りする。
「私にとって、丹波布は生活の一部でリズムのひとつなんです。そこがうまく馴染めば仕事を楽しめますし、長く続けていく秘訣ですね」。
本棚に小さな額があった。そこに言葉ある。
「そうじをしたり せんたくをしたりするように ぬのをおる 丹波布」と。
これは伝習生養成の講師だった河津年子さんの言葉。丹波布の織り手に、専業の人はいないという。それぞれのペースで生活しながら制作する。「子供を背負ってやっていた時期もあります。今は学校に行っている時間や夜に集中してできます。生活の中のまとまった時間で糸を紡いだり布を織ったり。草木で糸を染めるのも、わあっと煮立てて冷ましながら色を入れるので、合間にできるんです。木綿はあまり気遣いがいらないんです」。
ただ、かつての人たちのような副業の感覚ではないという。「好き」が先に来て、結果的に仕事になっている。伝承講座や伝習制度により、分業から一貫制作へと変わって、誰しも作品への思いを深めたこともあるだろう。「本業は丹波布、副業が主婦、でしょうか」とイラズムスさんは微笑む。いずれにしても、丹波布はずっと生活と共にあった布なのだ。専業の布にならずにいてほしい、と上村氏も『丹波布縞帳』に記している。
ふと、大阪民藝館の小野さんの言葉を思い出す。「京都で需要があって、復興したいという強い思いがあっても、モノの力がなければ続かなかったと思うんです。民藝運動が評価しても途絶えたものは多々あります。だから、産地や産地の人の底力があっての布、それが丹波布の魅力ではないでしょうか」。
そして今、銀座もとじと丹波布が新時代の丹波布へと一歩踏み出す。丹波布復興70年の記念展でもある今回の作品展に向けて、令和の時代に着たい色や柄、風合いを真剣にやりとりしてきた、その成果を目の当たりにできるという。「僕が最初に丹波布に惹かれたのは、英国留学から戻ったばかりの眼で見た素朴な格子が、洒落たチェックに思えたからかもしれません」。きっとそれは丹波布のポテンシャルなのだ。柳氏が素朴さの奥に名物裂の洗練を見出したように。丹波の自然と、歴史、人々の営みから生まれる布は、復興70年の時をへて、また新たにその可能性を広げていく。
温度の上がり下がりを利用し、じっくりと糸を染色していきます。
緯糸は、近くに自生している篠竹を短く切った管の周りに巻いていきます。
丹波布(たんばぬの)とは
丹波布は、明治末期まで丹波佐治の地で農家によって盛んに織られ、当時は「佐治木綿」と言われ愛用されていました。畑で栽培した綿から糸を紡ぎ、藍、栗の実の皮、ヤシャブシ、山楊、こぶな草、ハンノキなどの草木で染め、手織りで仕上げられ、絹のつまみ糸を緯糸に入れるのが特徴です。
国指定選択無形文化財 「丹波布」 を所有する丹波布技術保存会。
1954年に佐治の名士ら9人が立ち上げた 「丹波布復興協会」 (翌年に技術保存協会に改称) で、 1957年に国の文化財指定を受けます。 その後、1984年に丹波布の第一人者である足立康子さんらが、織り手で組織する 「丹波布技術保存会」 として再興されました。青垣町にある丹波布伝承館の元指導員と卒業生有志でつくる 「技術者協会」 は会員約30人が保存会に入会しており、地域の歴史と文化を受け継ぎながら、丹波布の実直で奥深い美を追い求め邁進しています。
*「丹波布」の名は、柳宗悦によって、復興時の1953年に名付けられました。
*銀座もとじ和織 2018年10月初催事、2020年40周年記念展 銀座の柳染出品
田中敦子(たなかあつこ)
きもの、染織、工芸を中心に、書き手、伝え手として活動。百貨店やギャラリーで、染織、工芸の企画展プロデュースも手がける。「田中敦子の帯留めプロジェクト」主宰。雑誌『和樂』では、創刊時よりきもの研究家・森田空美氏の連載を担当。著書に『きもの自分流―リアルクローズ―入門』(小学館)、『更紗 美しいテキスタイルデザインとその染色技法』(誠文堂新光社)、『きもの宝典 きものの花咲くころ、再び』(主婦の友社)など。近著に『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)、『J-style Kimono 私のきもの練習帖』、『J-style Utsuwa 私のうつわ練習帖』(ともに春陽堂書店)がある。
丹波布 復興70周年記念展
会期:2024年9月27日(金) ~29日(日)
場所:銀座もとじ 和織、男のきもの、オンラインショップ
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和染 03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472
(電話受付時間 11:00~19:00)
ぎゃらりートーク
丹波布技術保存会技術者協会会長・塚口佳代氏、イラズムス千尋氏をお迎えし、作品やものづくりについてお話を伺います。
日時:9月28日(土)10~11時
場所:銀座もとじ 和織
定員:40名様(無料・要予約)
作品解説
日時:9月29日(日)14 ~14時半
場所:銀座もとじ 和織
定員:10名様(無料・要予約)
作家在廊
9月27日(金)14~18時
9月28日(土)11~18時
9月29日(日)11~16時