著者:外舘和子(多摩美術大学教授)
1983年(昭和58年)、築城則子は北九州市内の骨董店で密度のある艶やかな縞の古裂に出会った。濃紺の間に白、その中心に細い藍、そして藍の脇にブルーのグラデーションというパターンが繰り返される現代的なストライプである(右図)。 掌ほどのサイズの裂でありながら、しなやかで厚みがあり、密度を感じさせる美しい布。それが築城則子と小倉織との出会いであった。 築城は小倉織の縞にどのような美を見出し、そこから何を実現しようとしてきたのであろうか。舞台の能装束に魅せられ織の道へ
築城則子は1952年(昭和27年)、八幡市(現在の北九州市)に生まれた。少女時代より童話や小説など文芸の世界に没頭し、早稲田大学文学部に入学。世阿弥を研究テーマに選び観劇に出かけた折、舞台の上で圧倒的な存在感を放つ能装束に魅せられた。日本の伝統芸能を支える舞台用の衣装には、黒、黄、緑、赤、青など、補色を含め個々に主張する多色の図柄が一着の中に共存している。 「こんなアブナイ色同士を組み合わせてるのに、全体としてみるとおさまりがよくて綺麗。こんな織物を作りたいと思いました」(註)。 築城はそのような一心ですぐさま大学を中退し、1974年(昭和49年)、小倉北区の染織研究所に入所。一年間、染織の基礎を学んだ。 その後、作家は沖縄県の久米島や信州の松本で地元の女性たちに紬織、絣織を学んでいる。特に久米島では、分業によらず、糸の草木染から織まで一人で行う方法がとられていた。色(染料)を創りだすことから始まる築城の仕事の基盤は、この修行時代を通じて形成されていったものといえよう。 しかし、紬や絣を学んだものの、築城は、多くの紬作家のように、絣糸を駆使して絣模様や絵絣を織り出す方向へは進まなかった。1970年代の紬時代の着物においても、井桁模様など、絣をいわゆる繰り返し模様として織ることは好まず、縞の中に一部絣を飛ばす程度。あるいは片身代わりの色面構成の境目に絣を取りいれるといったものであった。 色がどこまでも真直ぐに伸びていくという縞の潔さを、恐らく築城は当初から求めていたのであろう。偶然目にした小倉織の古裂への反応も、いわば出会うべくしての出会いだったのである。註 築城則子への筆者インタビュー、2015年3月31日。以下、文章中の作家の言葉はこの取材による。
産業としての小倉織
小倉織は、江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)の特産品として作られた。その起源には、小倉説、信州説など諸説あるが、最盛期は嘉永年間(1848年 ― 1854年)前後のおよそ20年間といわれている。また徳川家康が鷹狩りの際、愛用したと伝えられており、狂言装束の羽織が、現在、徳川美術館に保管されている。 江戸時代には身分による制約や、質素倹約の価値観も反映し、木綿の織物、特に良質で堅牢な小倉織は武士だけでなく、庶民にとっても実用性の高い日常の衣類として用いられた。 しかし、明治期に岡山県や愛媛県で小倉織を真似た織物が機械生産されるようになるなかで、コストのかかる手工の小倉織は、産業としては厳しい状況に追い込まれていく。学生服などの生地として健闘するものの、昭和初期には途絶えてしまうのである。 築城は冒頭の古裂との出会いをきっかけに、小倉織を調査、研究して1984年に復元。さらに織物作家の表現としての小倉織という、新たな縞の世界を切り拓いていった。驚くべき経糸の密度
小倉織はいわゆる平織という基本的な織の一種だが、経糸と緯糸の数や太さの比率に特徴がある。築城が冒頭の小倉織の古裂を調べたところ、裂1センチ当たり緯糸21.4本、経糸41.8本。経が緯に対し約2倍の密度である。糸の番手(太さ)は緯39/2Sに対し、経28/2S。経糸が緯糸より三割ほど細いことになる。 しかし、この割合で整経し織ってみると、魅せられた古裂のようなしなやかさが感じられず、生地が堅く武骨な感じになってしまう。築城は古裂のように、ある年月使い込まれた後のようなしなやかさや艶と密度で、新たな小倉織の縞を作りたいと考えた。 結果、緯糸に対し約3倍の経糸を使うことになったのである。つまり35センチ幅に経糸2300本をセットし、織っていくという、驚異の密度である。 築城が機を織る際には、踏み込む度に、地響きのような音がする。密集して並べられた経糸がこすれ合いながらも、かろうじて切れないぎりぎりの密度。築城が足を踏み込むタイミングを間違えれば、糸は軋み、機は進まない。地響きのような音は、作家が機と一心に呼吸を合わせ踏み込んだ時のみに生じるものである。仕事場全体を揺らすような唸りにも似た地響きは、いわば作家が織物の神の同意を得て糸に命を吹き込んでいく瞬間を刻む音なのである。 築城の仕事中には、常に音楽が流れている。例えば気分を盛り上げるような時はオペラなど。CD1枚分機の前に座ると、必ず十分ほど休むのだという。機のリズムを崩さないために、休憩が必要なのである。小倉縞の糸
いつでも制作に取り掛かれるよう、築城は常に数多くの色糸を準備しておく。前述したように、小倉縞に用いる糸は木綿である。藍の染は同じ日本工芸会に所属する森山虎雄に染を依頼しているが、他の色は自身で染める。木綿は藍を除くと、絹に比べ数倍染まりにくい。毎朝、染料を煮出し媒染して染めたら、翌日はまた新しい染材を準備する。染料を新しいものに変えながら、徐々に根気よく、濃く染めていくのである。枝葉や根などの材料を毎回新しいものに取り換えて染めることで、天然の植物染料であっても決して濁ることなく、その色の最も美しい、透明感のある色になる。木綿は絹より濃くなるのが数倍遅いが、それは逆に一つの色味に対し、ごく淡いものからごく濃いものまで何段階もの色を作れるということでもある。かせ糸で比べた際、どちらが濃いのか、際どい判断を迫られるレベルの、ほんの微かに濃さの違う色糸を何種類も作れることで、小倉縞のあたかも筆や刷毛で染めてぼかしたかのような柔らかく微妙なグラデーションが出せるのである。一見、短所とも思われる木綿糸の染まりにくさこそが、小倉縞ならではの色の諧調を生み出すという訳である。制作プロセスの要 ― 整経
制作に際してはまず、紙に色鉛筆で縞の並びのイメージをラフスケッチし、全体の雰囲気や方向性を決める。その後、作家曰く「部屋中に糸をぶちまけるようにして」ストックして置いた色糸を並べて見つめ、これとこれ、その次にこれ、と実際の色糸を取り上げ並べていく。 それを個人用のドラム整経機に、経糸の配置通りにセットする。ラフスケッチの段階でイメージしたものを、よりリアルな織物の最終イメージとして、この整経段階で具体化しチェックするのである。 ラフ図案を描くときと、このドラム製経機を使った実際の色糸で配列を決定することが、織物の良し悪しを左右し、作家の縞の表現を決定する最も重要な工程といってよい。 縞の配色に失敗しないコツは、主役のトーンを大事にすること。例えば梅の薄紅色をテーマにしたら、組み合わせる色はその六段階の柔らかい薄紅色の諧調を邪魔しない色を選ぶのである。作域の拡がりとアシンメトリーな縞のドラマ
築城則子の作風は、比較的規則性のある縞とランダムに変化する縞の少なくとも二種に大別される。 前者は、築城の小倉織の当初から見られるタイプで、例えば幅のある濃い色の縞がほぼ等間隔で現れ、グラデーション部分の縞を引き締めるタイプ。1983年に出会った古裂にも通じるデザインである。また、引締め役の縞が細めで、全体に細い縞のほぼ規則的な配列によるものもある。 一方、ランダムな傾向のものは、特に近年、豊かな展開がみられるもので、2013年(平成25年)第47回日本伝統工芸染織展奨励賞・京都新聞社賞受賞作<<小倉縞木綿帯 奔流>>などはその代表的なものである。色相の異なる青と緑を基調に、それぞれ濃淡を違えた数十色の糸を用いている。感覚的な幅で配された細い経縞の集積は、密度のある色の諧調を示すとともに左右アシンメトリーの立体感ある抑揚を生み出している。一本の帯で、絶え間なく流れ続ける渓流のようなドラマティックな世界を力強く表現した秀作である。同展覧会で筆者は鑑審査員を務め、受賞作の解説を図録に記したのだが、審査会場に赴いた際、応募作がひしめき合うなかで、その帯は他を圧倒するオーラを放っていた。昨年、北九州市立美術館で開催された「小倉織復元30周年 築城則子 ― 縞の今 ―」展の図録でも、この帯が裏表紙を飾っている。拡張する縞の世界
2006年(平成18年)から、築城は機械織の小倉織ブランド「縞縞」のデザインを監修する仕事も手掛けている。さらに地元銀行の通帳の表紙にデザインを提供したり、和紙の透かし模様の為の縞を考案したり、建築物のインテリアにも協力している。 そうした「普及」的な仕事に関わるほど、逆に自分の手で一から織ることの意義も感じるという。デザイナーとして機械織りでコストを抑えて作る物は、どうしても「繰り返しの織物」になる。しかし自身の手で織る一品制作には、その時々の作家の思考や感覚、身体性など全てが直接反映される。それは現代における作家の工芸の醍醐味である。 今回の銀座もとじの個展に並ぶ品々には、一点ずつそれぞれに、築城則子のダイレクトな世界が詰まっている。ここ一番の折に身につければ、帯であれ、袴であれ、誰にも臆することなく堂々と勝負できるに違いない。どこまでも真直ぐに、どの色も交わることなく、かつ互いを認め合いながら、色同士が迷いなく突き進んでいく。築城則子の“縞の美”がそこにある。上 築城則子作 小倉縞 九寸名古屋帯 左から「月流」、「水紫悦」、「暁韻Ⅱ」
下 築城則子作 小倉縞角帯「藍翠」、 小倉縞袴「克」、小倉縞角帯「閑」
※上記『和織物語』は2015年6月に開催された『縞が奏でる音色 ― 築城則子の小倉織』展に際して執筆されたものです。