八重山の自然に育まれた素材と技の結晶が織り成す「八重山上布」
東京から空路3時間半で、別天地、八重山諸島の「石垣島」に着く。果てしなく続く空と海の青さが私達に自然の大切さを教えてくれる。沖縄の南端、八重山諸島で生まれた八重山上布は、大自然の恵みと人間の技の結晶で育まれた、美しい織物です。八重山上布の歴史
八重山上布の起源は定かではありませんが、『李朝実録』などからするとかなり古い時代から八重山上布の苧麻(ちょま)が着衣の素材として用いられていたことがわかります。特に、琉球王府が出来てからは王府お抱えの絵師が図柄を作り、色の豊かな織りの細かい上質の麻布は王府ゆかりの人々が着用するものとなりました。 その後、琉球王朝が薩摩の侵略を受けると、島の14歳以上の婦女子に人頭税が課せられ、厳しい貢納布制度が実施されます。それを境に島の人々は、王府の厳しい指揮、監督下で織物に従事する事となり、その結果、技術が向上し、精緻な織り柄がどんどん織り出されていきました。 また、八重山上布は薩摩藩を通して江戸、大阪などへも出荷され、琉球王府においても大変な貴重品となり、ごく限られた人々だけが身につけられる、庶民の生活からはかけ離れた織物として存在していきました。 1886年に人頭税が廃止され、八重山上布の産業化が一気に始まります。八重山上布独特の「短機」織機が考案されたのもこの頃で、それ以来、機の操作も容易となり男性も機織に参加するようになりました。大正時代に入って織機が改良され、捺染(なっせん)で使う「綾頭(あやつぶる)」が、織機の一部になり、張力のむらによる経絣のずれがほとんどなくなり、更に品質が向上していきました。 第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた沖縄では、八重山上布も一時期は後継者が途絶えてしまうのではないかという危機もありましたが、沖縄県や石垣市などが一丸となって後継者育成事業を立ち上げ、現在の生産体制となりました。苧麻(ちょま)から糸づくり『島中が待っている豊川さんの苧麻糸』
神業のような手さばきで
苧麻を績み続ける
豊川ふみさん
苧麻を績み続ける
豊川ふみさん
亜熱帯の石垣島では苧麻は年に4回収穫することができます。昔はどの家の庭にも苧麻が植えてあり、お年寄りが麻績みをしていました。しかし、今では島でただ一人。この道70年近くになる85歳のおばあちゃま、『豊川ふみ』さんが唯一の績み手です。
苧麻の中で一番よい糸を作り出す事が出来るのが、方言で『ウリズンブー』と呼ぶ『春の苧麻』。
自然の染料、紅露(クール)はヤツガシラのお化け?
切った直後のクールの断面
八重山上布独特の染料は「紅露」です。石垣島や西表島の山林に自生しているヤマイモ科の植物で大きいものは70~80センチに成長します。織子さん達は紅露を取るために山に入り、大きなシャベルを使って掘り出します。
ヤツガシラのお化けの様な黒い紅露をナタで切ると、中は真っ赤。
紅露は、年月の経っているものほど中は濃い赤茶色で染料には適しており、若いものほど橙色に近く、染料としては薄めになります。
これを大きな下ろし金ですりおろし、ガーゼに包んで絞って汁を取ります。その汁を天日で自然乾燥させ、半分ほどに濃縮させて染液とします。これは大変着色が良く、八重山上布ではこの染料を使って竹の櫛で差し込む様に擦りこんで糸を染めていきます。これを「捺染(なっせん)」と言います。
左、乾燥させチップ状にしたクール
右、クールをすりおろすための大きな下ろし金
右、クールをすりおろすための大きな下ろし金
八重山独自の『綾頭(あやつぶる)』は優れもの!
八重山上布では染料に「紅露(クール)」を使い「捺染(なっせん)」と言う方法で染色していきますが、この時、大活躍するのが『綾頭』です。
糸の絣付けが不揃いにならないように、また染色中に他の糸に染料がつかないように、「あんどん」の様な四角形に紙が掛けてある「綾頭」に糸を均等に巻きつけて行きます。そして竹櫛の先に紅露をつけ、捺り込むと言うよりは差し込むように糸を染めて行きます。
クールを捺染する時に使い、
そのまま機にかけられる「綾頭」
そのまま機にかけられる「綾頭」
天気との勝負、反物干し
これほど手間隙を掛けた麻糸を今度は機に掛け、乾燥防止を繰り返しつつ丁寧に織り上て行きます。織りあがった反物は染料をしっかり浸透させるため、1週間天日干しされます。 これも織子さんが気を抜けない大事な工程です。折角の反物も干している間に雨にあたってしまっては商品にはなりません。 特に八重山諸島はスコールのような雨が降りやすいため、天日干しが始まると織子さんはいつも空とにらめっこになります。少しでも雲行きが怪しくなると取るものもとりあえず反物をしまいます。どんなに遠くに出掛けていても必ず織子仲間同士で連絡を取り合い、お互いの反物を一生懸命管理しあいます。自由な海でのびのび海晒し
無事天日干しが終わると最後の仕上げ、海晒しです。
12メートルもある反物を何時間も海水に晒す作業は織子さん達にとって重労働です。一時期「重クロム酸カリウム」処理で代用をしていたことがあったそうですが、後継者育成が始まってから、『石垣島の自然破壊はしたくない』、『自然の中で作られた八重山上布は最後まで自然に帰して行こう』という織子さん達の堅い決意で、今では昔ながらの海晒しに統一されています。
どこまでも透明な海と
太陽の下での海晒し
太陽の下での海晒し