著者:田中敦子(工芸ライター)/2015年発行
「今時こんな美しい布はめつたにないのです。いつ見てもこの布ばかりは本物です。その美しさの由来を訪ねると理の當然であつて、どうしても美しくならざるを得ない事情にあるのだとさへ云へるのです」
この前書で始まる、民藝運動の祖・柳宗悦が著した『芭蕉布物語』は、第二次世界大戦前の喜如嘉で聞き取りを行っている。喜如嘉は沖縄本島北部の山村である。ここで生まれ育った平良敏子さんは、戦時中に沖縄挺身隊として倉敷に赴き、終戦を迎える。間もなく、倉敷紡績の大原聰一郎や民藝運動に深く関わる外村吉之助との知遇を得、織りの基本を学ぶことになる。また、柳の名著を教えられ、子どものころからなれ親しんだ芭蕉布の素晴らしさを心に刻む。そして、二人から「沖縄の織物を守り育ててほしい」との激励を受け、焼土と化した沖縄に戻り、芭蕉布復興の険しい道程を歩んでいったのだった。
冬が終わって潤いを増す、沖縄の陰暦2月、うりずん。
何度目の喜如嘉訪問だろう。初めて沖縄本島を訪ねたとき、脇目もふらずに向かった場所。染織への興味がつのり、本を読みあさっていた時期で、聖地巡礼にも近い気持ちだった。
沖縄自動車道をひた走り、許田インターチェンジで国道58号に降りる。
左に珊瑚礁の海が広がり、南国の空気に体が緩まり始めるころ、さわさわと風に揺れる芭蕉の群生が姿をあらわす。大宜味村の喜如嘉に入ったのだ。 赤瓦の木造平屋、囲む珊瑚の石垣と福木の防風林、芭蕉の畑。観光向けではない、琉球の原風景が残る村。ここに聖地の殿堂が、ひっそりとある。大宜味村立芭蕉布会館だ。“喜如嘉の芭蕉布”の生産拠点で、芭蕉布作りの作業風景を見学もできる、開かれた場所。ここには作り手の女性たちとともに立ち働く、平良敏子さんの姿がいつもある。
乾燥に弱い芭蕉の糸が切れぬよう、暑い時期にも関わらず加湿器の蒸気がこもる機場で、研修生たちを指導していた敏子さん。琉球藍の発酵をうながすため、一升ビンを抱えて藍瓶に泡盛を注ぐ姿を目にしたこともある。黒いエプロンを掛けて黙々と、糸と糸を結び繋いで長い糸を作る、糸績みの仕事を無心に進めている日もあった。
1974(昭和49)年、沖縄が日本に復帰した2年後、敏子さんを代表とする“喜如嘉の芭蕉布保存会”は国指定の重要無形文化財に、また敏子さんは、その技術保持者(人間国宝)として認定を受ける。しかし、芭蕉布への評価は、喜如嘉の女性たちの功績だと、敏子さんは謙虚に受け止めている。村のみんなに教えられ、支えられ、なんとか〝喜如嘉の芭蕉布〟を牽引してきた。御年94歳とは思えぬ、しゃんと背筋が伸びた若々しい姿。
現在は、敏子さんが担ってきた役割を、長男の嫁、というより義娘と呼ぶ方がしっくりとくる、平良美恵子さんが受け継いで、体を張って芭蕉布を守り育んでいる。美恵子さんは県外出身。うちなんちゅ(沖縄県人)でない人が〝島の宝〟 いや、〝国の宝〟を担う重さは、いかほどのものか。けれど「苦労なんて、みんなあるでしょー」と穏やかにかわす。
これまで“喜如嘉の芭蕉布”は様々なメディアに取り上げられてきた。敏子さんの芭蕉布復興ストーリーは、多くの人が知るところだろう。また、軽く、ひんやりとした肌触り、真肌色した原糸の温かみ、琉球藍の青や車輪梅の赤褐色の染め色が描く、琉球織物ならではの手結い絣。芭蕉布の魅力を語れば尽きないものの、今改めて、どこから伝えればよいのだろうか。
「畑に行きましょう。芭蕉布は畑がいちばん大事なの」と美恵子さんはきっぱりと言い切る。
「芭蕉布は、糸作りから反物になるまで、手のかかる工程が20以上もあるけれど、畑の仕事に比べれば、なんてことないと思えるわね」
芭蕉布会館の向かい、赤瓦の家が建ち並ぶ通り沿いから畑は始まっていた。
「この通りのどこの家のおばあちゃんも、みんな芭蕉布を織ったり、糸績みしてたのよ」
敏子さんをずっと支えてきた女性たちだ。でも、ひとり、またひとりと亡くなって、空き家が目立つ。20年ほど前には150人ほどいたつくり手も、半数にまで減っている。
畑に足を踏み入れる。小径の左右に芭蕉が茂る。長円形の葉が太陽の光に透けて、果てしなく緑だ。数日前、糸にできる時期を迎えた芭蕉の苧倒し(伐採)をしたばかり。雑草も刈られている。美しく整備されていることがわかる。
「自然のままではだめよね。日々手入れするからこそ、きれいに保てるの」
このあたりの家では、裏庭で芭蕉を育ててもきたが、空き家になれば、たちまち荒れてしまう。
「放っておくとどんどん伸びちゃうの」
確かに、放置された芭蕉は、畑の木より背が高く、葉がおい茂っている。
よい糸のためには、まめに葉と芯を切り落とし、茎が一定の太さになるよう手入れをする。葉落し、芯止め、と呼ばれる作業だ。
「ほら、倒れているでしょ。で、溶けちゃうの。人の手が入らないと雑草も茂るし、あっという間に芭蕉は消えてしまう」
芭蕉布に使われる植物はバナナの仲間で、実のなる実芭蕉、花がきれいな花芭蕉、糸をとる糸芭蕉に大きく分けられる。糸芭蕉は、アバカ、マニラ麻とも呼ばれ、南国の繊維として広く分布するが、沖縄の芭蕉布が水際立った美しさを誇るのは、人の手により丹精を重ねてきたからだ。
「今はまだ涼しいけれど、暑くなればうだるような作業よ。蜂もいるし、台風だって毎年くるでしょ。収穫も草刈りも手鎌で、腰にもくるし」
この畑で、「畳1500枚くらいかな」。つまり750坪。ほかにもいくつか、車が入れない傾斜地にも畑がある。合わせて2500坪。これらを作り手たちが共同で手入れし続けている。なにしろ、一反織るためには200本の糸芭蕉が必要なのだ。
畑によって環境は違い、糸質も変わる。また、糸が採れる状態に熟するまで2~3年かかる。しかも、種を蒔いて一斉に収穫するわけではない。畑には0歳から3歳までが同居していて、熟したものを見定めて、秋から冬の間に収穫するのだ。刈った茎の脇からは新しい芽がまた生える。その循環で20年ほど、ひとつの畑で栽培が続いていく。
ただし、台風で畑が全滅すれば、新たに3年は待たないといけない。その保険の意味でも、畑は分散して持つ必要があるという。
「古文書には、何尺の間にこういうふうに植えよとか、肥料は人糞に限る、この時期に葉を打てとか、こと細かに書かれているの。そこまでして糸を管理したから、琉球王府がお金を稼ぐ筆頭として、江戸にも送られて、武士の裃などになったのね。その質を求めると、どんなに大変で手がかかっても、昔ながらのやり方を続けるしかないの」
遅くとも16世紀には琉球に存在していたという芭蕉布は、琉球王府時代より、貢納布として、交易布として、また、人々の着衣として、琉球を代表する織物だった。繊細な糸で華やかに織り上げられた煮綛と呼ばれる王族や貴族向けの布から、野良着など素朴な庶民の料まで、あまねく網羅した涼布。沖縄本島のみならず、周辺の島々でも盛んに栽培され、織られていた。
そのなかで喜如嘉は、もともと芭蕉布作りが盛んだった土地だったことと、沖縄戦の被害が比較的少なく、作り手や道具が残っていたところに、敏子さんという一人の女性が存在したことで、奇蹟の復興を遂げたのだ。昔から織られていた野趣ある芭蕉布から始まり、やがて王府で織られていた上質な煮綛を手がけるようになるのも、「沖縄の芭蕉布の歴史を背負って〝喜如嘉の芭蕉布〟はある」という、覚悟と誇りがあるからこそ。
苧倒しした芭蕉の切り口は、たっぷりと水を含んだ層を見せる。芭蕉の幹は偽茎ともいい、葉が何枚も重なったものらしい。一枚の皮を裏と表に剥がして、表だけを束ねて、木灰で煮る。外側から、ウワハー(小物類に)、ナハウ(帯)、ナハグー(着尺)、キヤギ(染色用)と、四種類に分けられる。その用途からも分かるように内側に行くほど柔らかく繊細な糸になる。芯は汁の実として食用になるし、剥ぎ落とした裏は土に戻る。糸にならない外皮は芭蕉紙の材料に。つまり捨てるところはひとつもないのだ。肥料にも、各工程でも、化学的なものは一切使わない。涼しく美しい布であるだけでなく、真に健やか。今の時代、こんな布は希有だ。
「内服薬でなく、外服薬。着る薬よね」
芭蕉布会館の釜場では、四種類に分けた繊維が運び込まれ、木灰を加えた水で炊く作業が進んでいた。この工程で、繊維は柔らかくなる。釜の横には、畑の名前がついた箱に、芭蕉の皮が束になって納められている。
「ほら、これは白っぽくて、こちらは少し色が黄色いでしょ。畑によってこんなに色も違うのよ」
炊きあがった苧(繊維)は、通路を隔てた作業場に運ばれる。20人近い女性たちがずらりと座布団に座り、黙々と苧引きをしている。“えーび”と呼ばれる竹ばさみで、皮をしごいていく。敏子さんの姿もある。
「こうして皆で作業をするのが“喜如嘉の芭蕉布”なの。畑の仕事はひとりではとてもこなせないし、年によって糸の状態も違う。数値化できないことばかりだから、経験を重ねて勘を磨き、みんな一緒に仕事を続けることで、なんとか品質を守っていかないと」
敏子さんの功績は素晴らしい。が、あくまでもリーダーとしてで、作家ではない。その姿勢を、美恵子さんもまた、揺るがず受け継いでいる。
「織物って、経糸が目立つだけじゃだめよね。緯糸も絣糸も全部一緒になってハーモニーを生み出して、それが芭蕉布になるわけだから。みんな同じトーンでないといけない。没個性かもしれないけれど、それが芭蕉布なのではないかしらね」
『芭蕉布物語』の一節が、その言葉に重なる。
「美しいものが出来ることが當り前にすらなつているのです。ですから一々名を出す必要はないのです。かう云う事情をこそ祝福すべきではないでせうか」
“喜如嘉の芭蕉布”は、昔からずっと変わることなく、無名性により支えられてきた、得難き美ら布なのだ。