著者:外舘和子(工芸史家・多摩美術大学教授)
5月19日(金)より、染織家・吉岡政江さんの20年の歩みを一堂に会する初個展を開催。
40歳で染織に魅せられ、異例のスピードで工芸会で頭角を現した吉岡政江さんの濃密な20年の道のりを、工芸史家・多摩美術大学教授の外舘和子さんに取材・執筆いただきました。
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吉岡政江―織の可能性を求めて
日本では19世紀までに各地に特色ある染織が育ち、京都を中心に国際的な評価を得るなど、産業や生業として高度に発達した。また家族が着るための織物については、女性達がその制作に従事することも多かった。
しかし、20世紀以降、産業的な染織の担い手だけでなく、また女性達の家族への奉仕とは別に、個人作家としてこれに取り組む者が現れてきた。家業とは関係なく、個人の意思と創意で制作し、公募展や団体展で発表する染織の個人作家の登場である。殊に21世紀の今日では、男女を問わず様々な出自の染織作家が活躍している。現在、日本工芸会に所属し、旺盛な探究心のもと意欲的な制作を続ける吉岡政江も、そうした現代の織の個人作家の一人である。この度、吉岡の初個展に際し、本稿執筆のため、2023年3月9日、都内で制作する作家の仕事場を訪ねた。
海外での経験
吉岡政江は、1963年、群馬県沼田市に、電気保安管理業を営む父のもと、三姉妹の次女として生まれた。群馬県は、桐生織や伊勢崎絣などで知られるが、吉岡は子どもの頃に織物に馴染んだ記憶は無いという。祖母が手がけた鎌倉彫の盆など、人の手仕事を感じさせるもの自体には惹かれたが、自分の手で何か創ることには、むしろ苦手意識があった。一方、吉岡の父親は、中国に強い関心を寄せ、漢文を学び、しばしば中国で電気に関する技術指導を行い、また中国から日本へ留学したい人々のための日本語学校を設立し、校長を務めた人物であった。吉岡は父のそうした海外での奉仕活動に興味を持ち、獨協大学外国語学部卒業の1985年から2年間、自身もカンボジアとの国境に近いタイで日本国際ボランティアセンターの活動に参加した。
カンボジア難民キャンプでのボランティア活動は、医療的な援助、自動車の修理など、命や生活に直結する活動のサポートが中心であったが、カンボジアの伝統文化を繋ぐ活動を垣間見る機会もあった。吉岡にとって、機織りの原風景も、このボランティア活動の折に見た光景であるという。カンボジアのクロマーと呼ばれる伝統的な手織りによる格子模様などの綿布は、南国らしい彩度の高い明るい色調であり、今も吉岡はそうした布を自分の織機のカバーとして使用している。
帰国後の1988年、吉岡は商社に勤務する大学時代の同級生と結婚するが、何を一生の仕事とすべきか模索する中で、改めて上智大学の修士課程に入学し、スピーチセラピスト(言語聴覚士)を志す。一方で、翌年、夫と共にチェコに住み、現地で日本の書道や茶道、着物、文楽や舞台など、日本文化の魅力に開眼する。吉岡はチェコ滞在中も年に一度は帰国し、染織の展覧会を見るなど、染織への見聞を広めていった。
織の世界へ
言語聴覚士の仕事は、言葉に何らかの障害を抱える人々の声をひたすら受け止め聞き取るという受容の姿勢が必要である。それは重要な意義ある仕事だが、吉岡は、受け入れるだけでなく、自分を出すこと、自己表現することもしたいと考えるようになった。そのような中、ある時、雑誌で生徒を募集する女性染織家の記事を見つけた。吉岡同様、学びたいと考えた女性がもう一人おり、その女性から情報を得て、最終的にはその女性染織家ではなく、吉田紘三の指導を受けることになった。2003年、吉岡が40歳の時のことである。
吉田は京都を拠点に東京や大阪など、各地で手織りの出張指導をする人物である。基礎からじっくりと教えるのではなく、最初から生徒が作りたいものを織らせるという指導であり、吉岡が縦に並ぶ木の葉の図案を描くと、「これは絵捺染で」と勧められたりした。2003年から2013年までの約10年、吉岡は月2回のペースで吉田の指導を受け、2004年から3年間、夫の仕事で中国に滞在した間も中国に織機を運び、年に一度の帰国時には京都の吉田教室で染めや整経を学びそれを織る、ということを続けた。2005年の帰国時に見た日本伝統工芸展の作品は、吉岡の染織への強い興味を喚起するものであった。また、2009年から2年間、山崎和樹の工房に通い、草木染も学んでいる。
染織作家として―組織織・生絹(すずし)・絣
吉岡は織を学び始めてから僅か5年後の2008年、師・吉田の勧めで第1回現代手織物クラフト公募展に《霞立つ野辺》を応募して準グランプリを受賞、翌年には第32回日本染織作家展で《六月の雫》により佳作を受賞した。前者は平織に緯吉野織を組み合わせた着物、後者は藍と緑や黄の大きな縦縞に、花織が華やかな印象を添える着物である。糸自体が立体的な模様を築く組織織に、吉岡は当初から積極的に取り組んだのであった。また、自作に対する「受賞」という評価は、吉岡の中に趣味の織物を超えて染織作家を目指す意欲を芽生えさせた。さらに、2009年、吉岡は重要無形文化財「紋紗」の保持者・土屋順紀の個展(銀座和光)を訪れ、土屋と話す機会を得る。土屋に弟子入りすることも希望していたが、吉岡が自作を見せると「貴方は既に自分の世界を築きつつある。これからは自分でそれをもっと膨らませて進んでいったらいい」と言われ、また日本工芸会が主催する展覧会への出品を勧められた。土屋の助言を機に、吉岡は吉田の手織り教室を卒業し、本格的な制作活動を開始するのである。
2013年第53回東日本伝統工芸展での初入選は、その新たな第一歩であった。入選作《織着尺「草霞む」》は、グレーの太い格子と、濃度の異なる茶などの細い格子模様を組み合わせ、平織と畝織により立体感を表現した爽やかな作品である。翌2014年、第48回伝統工芸染織展に初入選した《織着物「野辺彼方から」》では生絹(生糸で織った平織の絹布)の着物を手がけ、同年の第61回日本伝統工芸展に初入選した《絣織着尺「涼風」》では絣織にも取り組んでいく。前者は着物全体に変化のある格子模様が拡がり、後者は経緯絣の細いL字を組み合わせたような矩形の模様をリズミカルに連続させ、その絣で囲まれた中央の赤い点が愛らしい作である。
以後、吉岡は組織織に取り組むとともに、生絹のような薄く張りのある織物を積極的に手がけ、また、絣を要所で生かすなど、幅広い意匠に挑戦していくのである。
吉岡政江作 生絹緯絣織着物「木もれ日」※第56回日本伝統工芸染織展(令和4年)出品作品
織物制作の工夫と醍醐味
吉岡の制作は、チラシの裏などに描く、ごくラフな図案に始まり、それをスケッチブックに色鉛筆でやや具体的にスケッチする。その膨大な量は、殆どブレインストーミングの如くである。アイデアは全て具体化しておく、ということであろうか。その中からこれまで六割ほどが実作になったという。
その後、スケッチをもとに、まずA4の4分の1ほどの着物形の下図を描き、それをA4サイズに「拡大」する。一般的な染織作家は、スケッチからすぐにA4の小下図に進むことが多く、A4の4分の1の下図、いわば「小下図のための豆下図」(図1)とでもいうべき下図は、吉岡独特の工程である。
この豆下図に続くA4の小下図から、さらに吉岡独自の「部分大下図」(と呼んでおく)を作成する。具体的に着物にした際の、実物大で織り糸を図面化し、背を中心に左右の袖へ横方向にA4図面を四枚繋いで、着物にした際の織模様の配置を確認する(図2)。意匠(織模様の内容)によっては、この横繋ぎの部分大下図のタテの長さを伸ばすこともある。単に連続模様の生地を着物に仕立てるのではなく、着物というフォルムの中で模様の構成を検討するためである。この部分大下図の図面は色鉛筆で描かれる。パソコン上でも、似た作業はできるかもしれないが、筆者が見る限り、色鉛筆の線の方が、糸という立体的なイメージに近いように思われる。
この部分大下図が決定すると、必要な糸を染め、絣ならば糸を括る工程がある。吉岡は家のリフォームをする際、リビングの壁に糸を張るためのバーの付いた可動式のパネルを設置した。2枚のパネルの内の1枚は、室内の距離のとれる反対側の壁に取り付けることができ、かつ、糸を張る高さを自由に変えることが出来るようにしたため、時間のかかる糸の括りを途中で中断する際にも、いったんバーの高さを上げておけば、生活に支障をきたさない。次の括り作業の折に再びバーを適正の高さに戻し、括りを無理なく継続することができる。都会のマンションで日常生活と織物制作を両立できる環境を築くことも、吉岡のような現代の個人作家には必要なのである。
吉岡にとって、制作中の最も楽しい時間は、ドラムで経糸を整経する工程であるという。紙の上で描いていたイメージが、糸という実材によって織物のリアリティを獲得する工程であり、織物の意匠を具現化するための基軸となる工程である。「デザイナー」とは異なる「織の工芸作家」の醍醐味は、実際に糸に触れることにほかならないのである。
図1、「小下図のための豆下図」
図2、吉岡独自の「部分大下図」
コロナ禍を乗り越えて
2020年、コロナ禍で多くの展覧会が中止や延期となった年、第60回東日本伝統工芸展の鑑審査は行われたが、入選作全てを展示する通常の展覧会はできなかった。しかし日本工芸会東日本支部は受賞作と人間国宝の作品による展示を行った。その際、会場の日本橋三越と交渉し、初めて6階美術画廊に染織作品が展示された。それまで美術画廊には陶芸など他の工芸は展示されてきたが、染織のみ4階呉服売り場に限定されていた。それは百貨店の歴史上、呉服が特別の位置を占めてきたという経緯にもよる。しかし陶芸が食器のフロアと美術画廊の両方で扱われるように、染織作家の作品としての着物が美術画廊で展示されることに不思議はない(註)。美術画廊に並ぶ着物も勿論、着用の為のものだが、それらを着ることは「作品をまとう」ことである。これは他の工芸にない、染織の着物というフォルムに特有のアドヴァンテージである。
この時、最高賞の第60回東日本伝統工芸展記念賞を受賞した吉岡政江の《生絹織着物「月夜野に」(表紙画像)》は、三越の美術画廊に展示された初の記念すべき作品の一つとなった。タイトルにある群馬の「月夜野」は吉岡にとって思い出の地である。藍の濃淡を主体に槐樹(えんじゅ)で染めた黄の縞が光を思わせ、緑の絣模様がそれを強調し、ロートン織という表裏で色が反転する組織織も生かした構成である。つまり、生絹、組織織、絣、そして着物全体の大きな縞の配色の組み合わせで変化をつけながら一つの世界を創るという、吉岡のこれまでの仕事が集約された一枚なのである。
この度の銀座もとじの展覧会は、この受賞作をはじめ展覧会出品作を中心に、吉岡政江の20年の作家としての歩みを一堂に示す初個展となる。言語聴覚士としての社会貢献同様「染織を通して自分なりの社会貢献ができれば」と語る吉岡のさらなる飛躍を予感させる充実した展覧会となるに違いない。
註:拙稿「染織芸術としての着物」『毎日新聞』2020年7月12日。筆者はこの年、同展の鑑審査員を務めた。
吉岡政江(よしおかまさえ)年譜
1963年 群馬県沼田市に生まれる1985年 獨協大学 外国語学部ドイツ語学科 卒業
1998年 上智大学大学院修士課程 言語学専攻言語障害研究コース 卒業
2000年 言語聴覚士(ST)の国家資格を取得
2003-2013年 吉田紘三手織り教室にて技術習得
2008年 第1回現代手織物クラフト公募展準グランプリ受賞「霞立つ野辺」
2009年 第32回日本染織作家展佳作受賞「六月の雫」
2009-2011年 草木工房草木染講座(山崎和樹先生)
2013年 吉田紘三手織り教室卒業後、染織活動を始動
第53回東日本伝統工芸展初入選
2014年 第48回伝統工芸染織展初入選
第61回日本伝統工芸展初入選
2017年 日本工芸会正会員認定
2020年 第60回東日本伝統工芸展記念賞受賞「月夜野に」
2021年 第55回日本伝統工芸染織展奨励賞、京都新聞賞受賞「小さな祈り」
日本工芸会正会員