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色彩の架け橋~吉岡幸雄展~ | 和織物語

著者:田中敦子(工芸ライター)

 2016年10月、吉岡幸雄さんはロンドンに向かった。4年前に、英国のヴィクトリア&アルバート博物館(以後V&A)から「日本の色を染めてもらえないか」と依頼を受け、ようやく染め上がった70色を携えての、感無量の旅だった。
 1色につき幅40センチ、長さ3メートル。絹地を中心に、それぞれの天然染料が最良の発色を見せる材質を選んだ。「生地選びは大切です。糸一本から気を抜けない」伝統的な技法により生まれる和の色名を冠した70色。冴え冴えと澄んだ色を生み出す染料は、すべて自然の恵みで、その多彩さに目を瞠る。
 極東の島国を彩る四季の色を写し取ろうと、日本人は染めに工夫を凝らしてきた。もっとも高貴な色、紫系。これは紫草の根である紫根で染める。太陽、血潮と、人の命の色である赤系は、キク科の紅花の花弁、茜草の根、蘇芳の樹の芯材、ラックと呼ばれる昆虫からの色素、と4種を選んだ。空や海の色を思わせる青系は、蓼藍の葉。黄金のごとき黄系は、ススキに似た苅安の葉、黄檗きはだ楊梅やまももの樹皮、安石榴ざくろの実の皮、梔子くちなしの実。植物の色を象徴する緑系の色素は自然界になく、青と黄色を掛け合わせる。蓼藍で濃淡様々に染めたら、そこに黄色の染料を重ね染めるのだ。大地や夜を彷彿とさせる茶や黒の系統は、胡桃の樹皮や果皮、訶梨勒かりろく檳榔子びんろうじなど南国の木の実、松ぼっくりに似た矢車の実……。
 吉岡さんは、京都伏見にある『染司よしおか』の五代目当主であり、古法による染色技法を今に伝える。染織史家としても高名である。江戸時代より約200年続く工房を、先代の吉岡常雄さんから受け継いだのは40歳を過ぎてからと遅いが、V&Aの永久コレクションとして染司よしおかの染める「日本の色」が選ばれたことは、吉岡さんの来し方を総括するような出来事であった・・・

染織への眼を鍛える日々

V&Aは、世界中の芸術とデザインを専門分野とした英国の国立博物館であり、質量ともに世界一の内容を誇る。かつてその館内には、布好き垂涎の、テキスタイル スタディルームがあった(現在は、より専門化された内容で別館に移転)。世界中の歴史ある染織品が、新聞紙面大ほどの木枠つきガラス板に挟まれ、19世紀に造られた重厚な棚に納められていて、これを引き出して閲覧デスクに運べば、布の裏表を心ゆくまで見ることができた。
「若い頃、ロンドンに1カ月滞在して、通いつめたことがあるんです。開館から閉館まで、せっかくロンドンに来てるのに、ロンドンブリッジもバッキンガム宮殿にも行かずにやね(笑)。その後もロンドンに行くたび訪ねたものです」
 当時、吉岡さんは『染織の美』という雑誌の創刊準備を始めていた。〝呉服の都〟である京都で編纂される染織専門誌は、1979年秋の創刊。第一号の編集後記にある一文は、今も変わらぬ吉岡さんの基本姿勢を示している。
〝今までにない新しい染と織の雑誌の誕生をという話から、刊行に至るまで約2年もの間、様々な議論を重ねてようやくこのような形になりました。若い染織入門者に、専門家に、そして何よりも望んだのは今まで染織とは関り合いのなかった人に是非手にとって読んでいただきたい。そのため編集はあくまでオーソドックスに、まさに染織の美の本質を伝えたいと考えました〟
 日本のみならず、世界中の染織を網羅したその雑誌は5年で30冊、一流のコレクションと知見による充実した内容である。当時の吉岡さんは、雑誌の内容を高めるためにも自身の知識と教養を深めたいと渇望した。テキスタイル スタディルーム通いは、まさにそんな時期のことだった。
 長男でありながら家業を厭い、ジャーナリストを目指したという吉岡さん。しかし、大学卒業後に自ら設立した出版社である『紫紅社』で、美術工芸ジャンルを中心とした出版を手がけることになったのは、家業の影響が少なからずあっただろう。染司よしおか四代目として、また大学教授として、染織の研究に取り組んでいた父に連れられて、幼い頃から吉岡さんは美しい古美術と日常的に触れ、また、祇園祭をはじめとする京都の文化や、色彩豊かな京都の四季を肌で感じてきた。
 長じて、常雄さんの著書を編集し、実地調査に同行するようになれば、常雄さんの研究スタイルのすごさを目の当たりにする。常に自分の眼と足とで確かめ実際に試みる、というフィールドワークの徹底。定説を鵜呑みにせず、書物や資料で万全な下調べをして現場に赴き、調査や実験を怠らない。この姿勢は吉岡さんにもきっちり受け継がれている。家業を継ぐ以前に、染めの道への足固めは充分なされていたのだ。
 後継者のはずだった弟が、自分には向かないと家を離れ、間もなく常雄さんが急逝。吉岡さんは家業を継ぐことを決意する。
 古法に戻ることは、吉岡さんが工房に入る際の大きな覚悟だった。常雄さんは化学から染織を見渡す人であり、化学的な眼差しで天然染料を捉えていた。だから、合成染料も並行して使っていた。
「40歳過ぎて家業に入ることからも規模縮小しないといけない。ならば、天然染料だけでいこうと決めたんです。学生時代、東京の多摩川が汚染されて泡が浮いてたのを見て、自然に戻らない化学はダメだと思ってました」
 その上で吉岡さんが取り組んだのは、合成染料が導入される以前、つまり明治以前の伝統染織の解き明かしだった。
「伝統の仕事も化学なんです。ただし、土に還ることができる化学。これを、いにしえの染師がどんなふうにしていたかを知らないことには始まらないんです」
 今に伝わる染織品の数々にじかに触れて眼を凝らした。また、染織に関する表記がある古典籍を読み込んだ。
「江戸、桃山、中世と、時代を遡るほど面白いんやね」
 ただ、古くなるほど資料は少ない。奈良時代に関しては、正倉院の宝物として今に伝えられているが、平安時代のものは度重なる戦火でその多くが失われている。ただ、王朝文学や和歌の中には、豊かな色彩世界があった。ことに『源氏物語』。
「学生時代に読みかじった源氏には豊かな色彩の記述が多いことを思い出しました。そこで原文を読もうと、ひと夏、山に籠もったんです」
 最初は難解な原文にくじけそうにもなった。しかし、読み続けると紐がほどけるように理解できる瞬間が訪れたという。以後、繰り返し読み込んで、平安貴族の色彩観が吉岡さんの血肉となっていった。
「原文を読んでいるとね、まるで平安王朝の人々のおしゃべりの中にいる感覚になるんですよ。すると、王朝人が色を重ねて季節を表現した、その美的感覚と京都の四季が重なって見えるんやね」
 また、平安時代の年中行事や諸制度を記した『延喜式』の縫殿寮ぬいどのりょうの項には、宮中用の衣服の製造についての記載があり、階位により定められた着衣の色について、使われる生地の量に対する染料の植物や媒染剤の分量、燃料などがつぶさに残されている。
 京都という風土、『源氏物語』の王朝の色彩、職人たちの染色技法。吉岡さんの脳裏に、「日本の色」が確かな色彩で立ち現れた。
 技術面は、常雄さんに鍛え抜かれた職人、福田伝士さんがいた。10代より工房に住み込みで働いてきた福田さんとは兄弟同然の間柄で、吉岡さんが五代目となって以来、吉岡さんが持ち込む難題に取り組んできた。「先生はいつも難しいもん持ってきますのや」と、福田さんは笑う。染めの道を二人三脚で走り続け、早30年が過ぎた。

吉岡幸雄作(上)九寸名古屋帯 紬「手描更紗」 (中)広巾着尺 紬「憲法黒」、(下)着尺 一越縮緬(夏物)「紫」

 

 

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