著者:田中敦子(工芸ライター)
今、日本の色を植物で染め上げる工房として、国内はもとより海外からも高い評価を得ている染司よしおかは、京都の南、伏見区にある。かつては伏水とも表された名水の地で、酒どころでもある。 最寄りの駅は、京阪宇治線の観月橋だ。ゆかしいこの名前、もともとは豊臣秀吉の命で架けた豊後橋が、月見の名所となり、通り名になったという。宇治川に沿った駅の改札を抜け、橋のたもとに出ると、川を見渡すことができる。うららかな青空、緩やかな川の流れ。土手の緑に黄色い蒲公英や菜花が色を添える。 橋を渡り、川沿いを歩いて、向島小学校の手前で土手を下る。 以前、タクシーで訪ねたとき「こういう風情の町家は貴重になりましたなあ」と運転手さんがしみじみ語った、木造長屋が工房だ。生垣や庭木が建物を覆い隠すように繁っている。門扉の脇にある石を穿った手水は、清らかな水をたたえている。ふわっと薬湯のような匂いが運ばれてくる。染料を煮出しているのだろうか。
四大文明に通じる和の色
紫草の根っこで染める紫色。茜(あかね)の根っこからは赤。紅花の花弁の赤は華やかだ。刈安(かりやす)という芒に似た葉からは黄色。くちなしの実や柘榴の実の皮も黄色だ。タデ藍からはもちろん青。緑を作るなら、この青と黄色の染料を掛け合わせる。あたりを見渡すだけでも樹々の緑に満ちているのに、なぜか緑は植物単体からは染まらない。また、植物染料には、媒染剤という発色と定着を促す化学的な力が存在する。それぞれの植物の発色にふさわしい、決定版の媒染剤も存在する。たとえば、紫草の根っこ、紫根の場合は椿の灰。万葉集の中でも歌われ、十世紀に編纂された律令つまり法律の施行規則である『延喜式(えんぎしき)』にも技法が記されている。 「この匂いは、蘇芳(すおう)ですよ」と迎えてくれたのは、染司よしおか五代目当主・吉岡幸雄(さちお)さんだ。 蘇芳とは、赤を染める染料で、木の芯を使う。 「正倉院の宝物にも残っている古い染料なんです」 つまり奈良時代からあるということだ。しかも、「暑い国の植物で、日本では育たない木やね」。だから今も昔も変わりなく、海外から入手しているという。 日本の色を染める工房で、外国産の染料が使われていて、しかもそれは古い歴史を持っている。もちろん、ほとんどの染料は国内調達のものだが、それさえも、ルーツを辿れば国内に留まらない。紅花はエジプトが原産。柘榴はインド、というふうに。 ならば、日本の色とはいったい何なのだろう。 『日本の色辞典』『源氏物語の色辞典』『日本の色の十二カ月』など、日本の色にまつわる吉岡さんの著書には、紅梅色、香色(こういろ)、薄色など、美しい和名を持つ色が並ぶ。工房から生まれる染め布も、和らぎと透明感ある、まごうことなき日本の色だ。 「日本の色の歴史を遡れば、行き着くのは四大文明ですよ」 四大文明、つまりメソポタミア、エジプト、インダス、黄河。小さな島国の伝統色のルーツが、遠大な歴史の中にあるとはにわかには信じがたい。しかし、吉岡さんの色の考察は、そこが原点であり、揺るがない。地球全体の歴史の中から、日本の色を見ている。色と同時に、麻、木綿、絹という布の歴史も深く関わり、それぞれの土地の風土、支配者の思想、宗教などが色に影響を及ぼす。ユーラシア大陸全体に散在する植物や技法が、シルクロードや海洋を経て、日本に伝わり、そして、日本独自の発展を見せていく。吉岡さんのイメージには、遥けき〝色彩古道〟の姿が確かにあるのだ。古法に従うという選択
家業を継いだとき、吉岡さんは40歳を過ぎていた。それまでは出版や広告の仕事に関わっていた。日本文化を理解する貴重な人材として重用され、33歳のときには『染織の美』という雑誌の編集長に。広く深く、染織の世界に入り込み、知識と人脈を広げた。 日本の美術館や寺社、古美術商、コレクター。大英博物館やメトロポリタン美術館など海外の名だたる美術館。エジプトのピラミッドやシルクロード、ペルーなどの発掘現場。夥しい数の染織品に触れ、古い裂のもつ奥深い魅力にはまっていった。 「じっくり見ていると、何かしら奥底に光るものがあるんです。恐ろしいほどの力やね」 現代の布とは比べものにならない高い技術と感性が、眼に焼きついた。そんな経験を重ねる途上で、父・吉岡常雄氏が亡くなり、いやおうなく家業を継ぐことになったとき、吉岡さんは三つのことを決断する。 工房規模の縮小、井戸を掘り直す、植物を見直す。これは、驚くべき脱近代化宣言であった。 「いいものを作るには、作りっぱなしにしないこと。手渡す相手の見える仕事をしようと考えました」 そのためには規模を小さくするしかなかった。 「染めは水質が肝心。伏見は名水の地ですが、井戸を掘り直して、染織に向く、鉄分の少ない井戸水を使うようにしました」 鉄分は色を濁らせる。吉岡さんは100メートルの深さを掘ることに決めた。俄然、水質がよくなった。 「合成染料をやめました。父は化学万能主義だったんです。だから化学を通して自然を理解するところがあったけれど、自分は植物に徹しようと決めました」 常雄氏は大学教授でもあり、化学から植物染めを見渡す人だった。その教えを受けた先代からの職人・福田伝士さんが、吉岡さんの決意を支えてくれた。 「今やっているうちの仕事は、土に還る化学なんですよ」 吉岡さんは、自工房の仕事を簡潔に言い切る。植物染めと化学は、相対する言葉に思える。けれどそれは、私たちが産業革命後の現代人であるからだ。 「ケミカルなものが生まれる前は、天然自然の中に化学があったんです。先人たちは、何度も実験しては失敗して、その末に失敗しない最良の方法に出合ったわけですよ」 土に還るとは、自然を害さないということだ。植物染めも、ケミカルな媒染剤では、土には戻せない。 「発色も違うんですよ。たとえば、紅花の媒染剤には稲藁の灰を使いますが、成分は炭酸カリウムと一緒なので代用できる。でも、発色のよさは藁灰やね」 便利な顆粒だしを使うのか、きちんと出汁を取るのか、という料理に置き換えれば、理解しやすいかもしれない。だから吉岡さんは、明治維新より前の文献に数多く当たり、確かな植物染めの方法を探り続けた。 「明治維新後は、化学薬品や機械が欧米からどっと流れ込みましたからね」 それでも、家業を継いだばかりの頃は、植物染めの作業が、関西流に言えば「辛気くさい」、つまり非効率なことに仰天し、機械化して合理的にできないかと考えもした。しかし、「結局は手が一番だったんです」と笑う。今も目の前で、ゆっくりと布を手操りながら染める作業が進められている。吉岡幸雄作 2点とも 袋帯 正倉院宝物写 (左)緑地葡萄唐草文様錦、(右)茜藍菱形紋