夫から妻への粋な贈り物?
京随一の遊女がまとった吉野間道とは
室町時代から桃山時代にかけて渡来した縞織物のひとつである間道(かんとう / かんどう)。主に茶器の仕覆や袱紗などに用いられた名物裂を指すことが多く、貴重な染織品として珍重されました。
江戸時代に入ってからは、茶人たちが裂に固有の名を冠して賞玩するようになり、青木間道、伊藤間道、弥兵衛間道、日野間道、利休間道などさまざまな呼称の間道が登場。吉野間道もその一つです。
その名は京の遊女・吉野太夫に由来としているといいますが、なぜ彼女の名前がつけられたのでしょうか?今回は吉野間道と吉野太夫の関係について探っていきます。
吉野間道とは
吉野間道は、京都の豪商・灰屋紹益(はいや じょうえき)が六条三筋町(のちに島原に移転)の遊女・吉野太夫に贈った打掛の裂が由来といわれています。現在はさまざまな配色のものが制作されていますが、もともとは濃萌黄地に両端を臙脂と白の細縞で囲み、同色の真田織の横縞を組み合わせた格子模様だったようです。
器量と教養、情の深さを兼備。
京随一の遊女・吉野太夫

『古物売立目録 〔第19冊 京都ノ部〕』(国立国会図書館デジタルコレクション)
吉野間道に名を冠する吉野太夫とは、どのような人物だったのでしょうか。ここからは、吉野太夫の生い立ちを見ていきましょう。
吉野太夫は京にあった遊郭・六条三筋町の遊女。本名を松田徳子といい、もともとは武家の娘だったといわれています。当時は武家の没落が相次いだ時代で、彼女もわずか7歳で傾城屋に預けられることに。その後、遊女としての頭角を現し、14歳にして名跡・吉野太夫(二代目)を襲名します。
彼女は香道・茶道・華道・書道・琴・琵琶・和歌・連歌・俳諧などを嗜む高い教養と、寝起き姿でも息をのむほど美しいといわれるほどの美貌、そして慎ましく慈悲深い性格を兼備。完全無欠の美女として名を馳せ、夕霧太夫・高尾太夫と共に「寛永の三名妓」と称され、その評判は当時の中国・明にまで広まるほどだったそうです。
そんな彼女は26歳で身請けされます。相手は紺灰問屋で大成した豪商・佐野家の跡継ぎ灰屋紹益(佐野重孝)で、なんと彼は当時22歳。本阿弥光悦の縁戚にあたる人物で、和歌や蹴鞠、茶の湯などに優れ、のちに随筆文学の傑作といわれている『にぎはひ草』の執筆や茶道具の制作などを手掛け、多方面で活躍をみせました。
竹蓋置 / 灰屋紹益作(江戸時代 17世紀 /国立文化財機構所蔵品統合検索システム)
朱漆で記された判から灰屋紹益(本名佐野重孝、1610~91)の作とされる。紹益は京都の豪商で、和歌を烏丸光広に学び、茶の湯を千道安、本阿弥光悦に学んだ文化人として知られる。吉野太夫を身請けしたエピソードは有名である。
身請けを巡っては、紹益は当時の関白・近衛信尋と争いましたが、最終的に紹益が千両もの大金を支払って吉野を正妻として迎え入れることになり、信尋は大変に落胆したといいます。
身請けされた後は幸せな結婚生活を送ったようでしたが、吉野は38歳という若さで死去。吉野が亡くなった際、紹益は「都をば 花なき里になしにけり 吉野は死出の 山にうつして」という歌を詠んで彼女の死を悼んだそうです。
なぜ間道の打掛を贈ったのか
前出の通り、吉野間道という呼称は紹益が吉野に贈った打掛の裂を由来としているといわれていますが、なぜ間道の打掛を贈ったのでしょうか。
その明確な理由はわかりませんが、もともと武家の女性の正装であった打掛は、花嫁衣装として実家の裕福度や権力を誇示する目的で華やかさを競い、一方で着る人の心映えまでも表現していたといいます。
当時間道は通好みのハイカラな織物。高い文化的教養を持ち、かつトレンドセッターでもあった遊女の最上位である吉野太夫のまとうものとしては十分にセンスの良さを示すことができる織物であったと考えられます。武家の娘である松田徳子、最高位の遊女である吉野太夫、どちらの矜持も保たれているように思える間道の打掛は、彼女の出自や人柄を考慮した紹益の粋な贈り物だったのではないでしょうか。
遊女としてたくましく生きた後、短いながらも最愛の男性との平穏な生活を手に入れた吉野太夫。そんな彼女への賛辞と憧憬から、人々は打掛に使われた縞模様の裂を吉野間道と呼ぶようになったのかもしれません。
【参考資料】
・『本阿弥一族と灰屋紹益ー吉野太夫の逸話における「父」と「一門」をめぐってー』 /工藤隆彰
・『女性と茶の湯のものがたり』依田徹 / 淡交社
・【着物のプロが監修】打掛の歴史と変遷|婚礼衣装として今に残る魅力
・『すぐわかる茶の湯の裂地』長崎 巌 / 東京美術
・『日本の染織 19 (京都書院美術双書)』切畑 健 / 京都書院
美術学校に通う夢見る高校生は、自分の中に潜む織音の記憶を手繰り寄せるように、そのまま美術大学の進路へ。
あれから60年の時が過ぎ、その母の背中を追うように優子さんも同じ道を歩むようになりました。
都心の工房では機音が響き、お二人の指先に走る瑞々しい幾数本もの染糸は心の思いを奏でるように織り成され、着物や帯となってゆきます。
やわらかな物腰で、「プラチナボーイも織り上がりましたよ。いかがでしょうか。」
その声の響きの底にある覚悟とほとばしる情熱は、私たちの着姿に揺るぎない自信を与えてくれます。
会期:2024年10月18日(金) ~20日(日)
場所:銀座もとじ 和織、男のきもの、オンラインショップ
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和織 03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472
(電話受付時間 11:00~19:00)
藤山千春さん・優子さんの工房「錦霞染織工房」を訪問しました
草木染めの優しい色に浮かぶふっくらとした畝。江戸時代に生まれた「吉野間道」を、現代の色彩感覚で織り続けている藤山千春さん・優子さんの工房「錦霞(きんか)染織工房」は、東京・品川の住宅街の一角にあります。
2024年10月18日(金)~20日(日)に開催の「紬織 藤山千春・優子 二人展」に向けて、お二人の工房を訪問させていただき、「吉野間道」の魅力やものづくりへの思いを伺ってまいりました。
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和織・和染(女性のきもの)03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472