沖縄県久米島で、長い歴史と豊かな自然に育まれた久米島紬。伝統的な技法が継承され、2004年には国の重要無形文化財に指定されました。蚕から織り上げるまでの全工程の技術が残る、日本でも大変珍しい染織文化を、歴史の側面から掘り下げました。
1.久米島紬の誕生まで
久米島でいつ頃から紬が織られていたのかは明らかではありませんが、「琉球国由来記」という歴史書には、14世紀の末頃「堂の比屋(どうのひや)」という人物(堂は集落名、比屋は男主人の意味)が中国の明に渡り、養蚕の技術を学んで帰ってきたと記されています。以来、島では素朴な紬の織物が織られていたようですが、江戸時代初期に琉球王国が薩摩藩より侵略を受け様々な租税が言い渡される中で、王府の政策で2名が派遣され「貢納布」として現在の久米島紬に近い形が整えられました。1619年、越前出身の坂元宗味(そうみ)が来島し、蚕の飼育や桑の栽培方法、真綿の製法を伝え、その後、八丈織に精通していた友寄景友(ともよせけいゆう)が薩摩より入り、紬織りと糸染めを伝えたことで、技術的に飛躍的な進歩を遂げたと伝えられています。
2.貢納布として〜江戸時代
江戸時代、一般的に租税は米で納められていましたが、久米島では絹織物で代納することができました。15歳から45歳までの役人の妻以外の全ての女性に対し一種の「人頭税」として課せられ、島民は苦難の中で染織の技術を高めていきます。「布屋」と呼ばれる現在の公民館のような集落ごとの建物が機織りの工房となっており、女性たちは「御絵図(みえず)」という王府の絵師が描いたデザイン見本の通りに正確に織り上げることを求められました。
役人による検査と品質管理は大変厳しいものでしたが、薩摩を経て江戸へ渡った端正な織物は、天保の頃には江戸で「琉球紬」という名でもてはやされたという記録が残っています。
「天保中は、琉球紬流布す、(中略)琉球紬を着すは、特に風流を好む者の如く、先(まず)普通には非ず、故に流布と雖ども、多からず、人品により晴服に近し」とある。東恩納氏は「その渋味のある雅致が風流人の間に賞美されていたもののようである」と、感想を記している。
( 「和織物語 久米島紬五十周年記念展—魂にまとう織物−」より )
江戸城が開城となり、時代は明治へ。しかし貢納布制度は1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県になってからも存続し、1903年(明治36年)、地租条例・国税微収法の施行されるまで続きました。
3.産業として〜明治・大正・昭和
1903年(明治36年)以降、租税としての機織りから解放された人々は、自らの生活の糧を得るために、改めて紬を織る仕事に向き合うようになります。それまで島内では主に黄色の繭を作る蚕種が飼育されていましたが、1905年には本土からより質の高い白繭が導入され、生産性が向上。蚕業の講習会や、蚕種の無償配布をはじめ、養蚕業への様々な改良が取り組まれ、また女子工業徒弟学校では紬織物の養成環境が整備されました。
最盛期は大正時代。地機から高機への転換も大きな力となり、1923年(大正12年)にはついに生産数4万反を超え、島民は豊かな暮らしをもたらしてくれた紬の始祖「堂の比屋」への感謝の石碑を建立しました。
第一次世界大戦中は大戦特需で久米島紬は飛ぶように売れましたが、その後の大恐慌のあおりを受け生産数は激減。昭和12年以降は3000〜2000反まで落ち込み、第二次世界大戦下では機織りどころではありませんでした。
戦後の復興は養蚕の復活を手始めに、真綿を作り、紬を織り始め、1951年には村人による協議会を開催。共同養蚕室の建設、婦人会を対象とした紬の講習会、共同染色場の建設など、復興へ向けた取り組みを次々と実施し、1970年に現在の組合の前身となる「仲里村久米島紬事業協同組合」を設立。生産の企業化をせず、組合が中心となって農業との共存を図りながら染色から製織まで一貫生産を行うしくみが整えられたことが、生産の順調な伸びにつながり、高度経済成長期にかけては島民の生活を支える大きな収入源となっていきました。
畑仕事と養豚の合間に織り、夫と共に6人の子を育てた。「皆、紬で大学を出した。家も建てた」とほほ笑む。
( 90代の元織り手への取材 沖縄タイムス 2019年5月29日紙面「久米島紬の四季」より )
日本復帰に伴い航空自衛隊事務官となった当時の手取り月給15万円より、母が経緯かすり模様が出るように仕立てた泥染めの糸で紬を織り、月に数反売る方が稼ぎがよかった。
(70代の元織り手への取材 沖縄タイムス 2019年5月28日紙面「久米島紬の四季」より)
4.工芸品として〜平成・令和
1977年には沖縄県指定無形文化財に指定。バブルの崩壊とともに着物需要が落ち込み、久米島紬の生産数減少に伴い養蚕業が一度は完全に途絶えてしまいますが、久米島紬保持団体と事業共同組合が中心となり1998年に復活。その取り組みも評価され、2004年にはついに国の重要無形文化財に指定されました。
久米島紬は、王朝時代以来の伝統を保ち、養蚕、糸づくり、手くくりの絣、天然染料による染色、手織り等、手作業による古来の技法をそのままに伝えています。すべて天然の材料が使用されており、特に染料のほとんどが島内産です。
当時、島を訪問した文化庁の文化財調査官の方は新聞の取材に対し「養蚕から織り上げるまで全工程の技が残る染織文化は他に例がない」と、その希少性について触れています。
《指定の要件》
- 糸は、紬糸又は引き糸を使用すること
- 天然染料を使用すること
- 絣糸は手くくりであること
- 手織りであること
久米島紬と聞いて多くの方が泥染めの着物を思い浮かべるかもしれません。確かに1900年代以降、庶民の着物として流通したのは落ち着いた色柄の泥染めの品でしたが、実は1990年代からは、市場に行き渡った感のある泥染め「黒物」に変わり、明るい色調の「色物」の方がより多く求められるようになりました。
黒物がお金になりにくい時代が続きましたが、技量や経験を要する伝統的な泥染めを「いつかは織ってみたい」と憧れを抱く作り手も多いといいます。そこで、泥染め技術の継承計画を考えられたのが、「和織物語」も執筆くださった久米島紬博物館学芸員の宮良みゆきさんです。技術的・金銭的にも一人で始めるのが難しいと知るからこそ、熟練者と未経験者がチームで教え合う仕組みを文化庁への働きかけもしながら整えました。泥染めについて、組合の松元理事長はこう語られています。
希少性頼みで古里の手技の粋を売るつもりは、ない。「色もの作りを通じて、旧来の泥染めにはなかったデザイン感覚や糸の扱いも培った。現代最高峰の技を伝統に折り込み、将来につなぎたい」
(沖縄タイムス 2019年12月13日紙面より)
久米島紬は、組合による「産業振興」と久米島博物館による「文化振興」とが両輪となり、伝統を守りながらも常に現代の装いとしての魅力を追求されています。作り手と対話し、課題を見つけては行政・民間を問わず働きかけて解決へと行動される中で、20年ほど前、店主の泉二へ相談をいただいた際には、銀座もとじにいらっしゃるお客様と久米島の作り手の皆さんとの座談会を開催させていただきました。それを機に都会的な雰囲気の「ゆうな染め」の商品開発に力が注がれるようになったといいます。
2020年、久米島紬事業組合が創立50周年を迎えました。これを記念し、銀座もとじでは3月20日より22日まで記念展を開催。王朝時代の御絵図の復刻柄、現代最高峰の手技で作り上げた泥染め、銀座もとじとも縁の深い「ゆうな染め」をはじめとする多彩な草木染め、大地(土)染めなどが個性豊かに一堂に集います。オンラインでも楽しくご覧いただけるよう準備を進めてまいりますので、ぜひご期待ください。
久米島紬 50周年記念展 ―魂にまとう織物―
会 期 : 2020年3月20日(金)〜22日(日)
場 所 : 銀座もとじ 和織 、男のきもの
ぎゃらりートーク
久米島紬事業協同組合・松元徹理事長と織手さん3名をお迎えし、ものづくりについてお話を伺います。
日 程 : 2020年 3月21日(土)、22日(日)【両日ともに受付終了】
時 間 : 10:00〜11:00
場 所 : 銀座もとじ 和織
会 費 : 無料
定 員 : 20名様(要予約・先着順)
お問い合わせ : 銀座もとじ 和織 03-3538-7878