もう4年前になりますでしょうか、大島紬店5周年記念パーティーで、私の手掛けた大島紬をお召しになったお客様方、そして、奄美の泥染め大島も含めて、ありとあらゆる大島紬の着物姿に感銘を受け、私はこの上ない喜びと誇りを得ることができました。
銀座もとじさんと出会った際、私は泉二社長から「もっと銀座に合う明るい色の大島紬をお願いしたい!と注文を頂きました。そして、後に私は「プラチナボーイ」という素晴らしい糸と巡り合います。どのような織設計をすれば、最高の糸を、その特性をより生かしていけるのだろうか、、、私の情熱に火が付きました。
ありがたいことに、1つの奇跡が生まれました。
私が独立する前、織元に所属していた昭和61年に技術開発した白泥染めの特許「白恵泥」が、私の元に戻ってまいりました。プラチナボーイに、この白恵泥という白泥染めを加えることにより、上質な風合いと柔和な色合いの魅力的な大島紬が生まれました。
もう一つ苦心して取り組んだのがロット数との闘いです。
「銀座もとじにいらっしゃるお客様には、最小ロットの作品を提供したい!」泉二社長の願いを実現したいと思いました。大島紬を1反ないし2反(=いわゆる疋もの)でデザイン開発する取組みです。大島紬ならではの締め機を使いながら、「銀座に映える絣」を生み出す一方で、ロットは増やさない。
その最小ロットへの取組みに成功し、今、そこから実現したのが「プラチナボーイ物語」の「大島紬版」です。
蚕に餌を与えるところからスタートする着物づくり「プラチナボーイ物語」のお客様は、わざわざ鹿児島まで工程見学、そして図案や色を決めるためにお越しくださいます。お客様が「柄見本帳」から自分で柄を選び、「色見本帳」から色を決めた瞬間、私に最高の笑顔を見せてくださいます。
「どうしてあの大都会の銀座からわざわざ鹿児島へ?」と最初は思っていましたが、、、私にとっては「お客様と繋がる最高の瞬間」になりました。
「益田さんが作ってくれた大島紬を着て、この鹿児島に里帰りして、益田さんに見て頂きたいです。ねぇ、一緒に鹿児島にまた出かけてプラチナボーイ物語の同窓会しましょう!」と仰ってくださった時は、本当にたまげました。そんなこと思いもしなかったことで、後々にじわじわと嬉しくて、嬉しくて。 あの証紙に「主」と書いてお客様の名前が書かれていて、そこに並んで私の名前が書いてあるのを見た時に「銀座に映える大島紬」という課題、「銀座もとじ」という舞台、そして織り上がった大島紬をお召しになってくださる「お客様」。この三つが常に僕の情熱をかき立ててくれます。
令和2年4月25日
益田勇吉
益田勇吉さんのご紹介
鹿児島県大島郡喜界町生まれ、現在は鹿児島県の本土で制作しています。
21歳、鹿児島市内の大島紬に織屋に従事、以後、独立されるまで17年勤務。常に当たり前を疑い、日々の創意工夫、好奇心と同時にどうしたらできるかを考える思考で驚くべき染め技法を発案、9年の研究を経て1960年に「白泥」で特許を取得。真珠のようなまろやかな美しい輝きをもつ白泥染め大島紬が誕生した瞬間です。
1984年には「白恵泥 はっけいどろ」として白泥染めが商標登録されます。15年前、純国産蚕品種プラチナボーイの商品化を目指すにあたり、染織の中でも素材を知り尽くし、未知数の夢を共に追い求め挑戦してくださる作り手へ託しました。
生糸は益田勇吉さん、平山八重子先生、白生地は江戸小紋師の藍田正雄先生、生繭は山岸幸一先生にお願いしました。限られた分量の中でのものづくりに失敗は許されず、30以上の工程を分業でするのが基本の大島紬の世界の中で、図案から織りまでほぼ全ての工程を手掛けている益田さんの顔が真っ先に頭に浮かんだと代表の泉二は振り返ります。
織り上げられた絵羽着物には緑深く、澄んだ海に囲まれた風土・環境で培われた色彩世界を、銀座の色絣には憧れという目には見えない心の色が重なり誰しもがお召しいただけるかろやかさを。誰よりも着る方を思い織り続けています。
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