平成元年頃から始まった白鷹町の天蚕紬の取り組みは、天蚕の会が収穫した繭を町内の織物組合に買い取ってもらい、織物組合が一反に織り上げて売り出していたが、かなり高価なものでもあり、なかなか売れず、圃場(ほじょう)を縮小、生産量も激減、存続の方法を模索していた。作ったものが売れないという現実に、「必要とされていないのか」、「作る価値はあるのか」と、平成23年春、会存亡の危機を迎えていた。東日本大震災が起こった春だった。私は、その春から町の産業振興課観光交流推進係、観光と物産の担当となった。
私と銀座もとじの泉二社長との出会いは、平成23年8月、猛暑の日だった。「今まで引継いできた技術をここでなくしてよいのか。やめたくない。」という会員の本音を受け、全国の中には、天蚕紬を欲しい方が必ずいるはず、私たちはその方と出会えるすべがない、それを泉二社長にご相談に伺った。全く面識もなく、電話でお会いする約束を頂いた。現状はお話ししたものの「オール白鷹の一反を買っていただきたい」と、唐突にお願いした自分は、まったくもって未熟だったとしか言いようがない。まだ商品もできていない状態での懇願だった。
しかし、泉二社長は、「買いましょう。良いものを作ってください」と即答してくださった。あの時のことを思い出すと、安堵と緊張が蘇り今でも、涙がこぼれそうになる。
「白鷹産にこだわった商品づくりに協力したい。白鷹ならではの一反を作りましょう。売れる商品づくりをしましょう」とおっしゃった。
それまで、生産量は、2、3年で一反になる程度まで落ち込んでいたのが、翌24年度には、一反分の繭が収穫できたのである。生産量の激増の裏には会員の様々な研究、手厚い見回り、そして何より、「一反を作るぞ!泉二社長の期待に応えたい!」という会員全員の意気込みがあった。
平成25年6月、「銀座もとじ」和織店舗で白鷹天蚕紬発表展示会を開催していただき、一年がかりの一反を無事納品した。
飼育担当だけだった「しらたか天蚕の会」は、「ものづくり集団」になって初めて、織り上げた天蚕紬を見ることができた。あの光沢と色に魅了された。技術を未来に残す取り組みは、作り手だけでは到底続かない。作り手とお召し下さるお客様をつなぐ架け橋となる泉二社長との出会いが本当の再起となった。 今年早春、40周年記念展作品として4反目を納品した。
泉二社長からかけていただいた言葉の数々は、会の再起のエネルギーであった。事務局という立場の私は、非生産的な仕事しかできないが、このプロジェクトに立ち会わせていただいたことは、白鷹町役場職員人生の中でも忘れられない出来事である。
私にとって今思い出しても、熱いものがこみあげてくるほど感激した瞬間の繰り返しだった。
令和2年5月26日
一般社団法人白鷹町観光協会 専務理事兼事務局長 芳賀敦子
しらたか天蚕の会のご紹介
山形県西置賜郡白鷹町深山地区では1989年から天蚕の飼育を始め31年になります。今では山形県内で本格的に天蚕飼育をしているのは白鷹町のみとなり、飼育場は『しらたか天蚕の会』 1か所のみとなりました。会の存続が危機的な状態であると相談を受け代表の泉二は2008年に白鷹を訪れます。「1年に1反でいい、“100%白鷹の天蚕糸の着物”を作り上げましょう。」 心を一つに夢のプロジェクトがはじまりました。それから6年後、普段は稲作農家や果物農家を営む人々は正に「ONE TEAM」となり、地元の特産物への誇りと愛情の賜物である、「絹のダイヤモンド」という呼び名に相応しい幻の反物を織り上げたのでした。
トーク会レポートはこちら
銀座もとじと白鷹町との取り組みは、ぜひこちらもご覧ください
2013年 「しらたか天蚕の会」の皆さんを迎えてのぎゃらりートーク、天蚕と家蚕の違いもご紹介
2013年 一反目が織り上がった時の様子はこちら
2009年 白鷹町の天蚕飼育場の様子はこちら
2015年 白鷹中学校の生徒さんが自主研修にご来店くださいました
白鷹町のホームページでも取り組みが紹介されています
「白鷹天蚕ものがたり 」
第1章 しらたか天蚕の会の再挑戦 泉二社長との出会い
第2章 白鷹天蚕紬ができるまで