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西郷柄の大島紬~最高の技術を尽くした大島紬~

大島紬の伝統柄には、龍郷、秋名バラ、有馬、亀甲、ツガ十…と生活や地名から考案された柄が数多くあります。そのひとつに西郷隆盛の名前を冠した「西郷柄」があります。一口に西郷柄と言っても様々なバリエーションがありますが、格子の中にさらに緻密な絣模様が織り込まれているのが特徴です。その複雑な柄を作るにはどの製作工程をとっても難しく、奄美大島の各集落ごとに、最高の技術を持った職人たちによって腕を競うように織られてきました。出来上がった柄は、遠目は無地に見え、近寄るとその細かな柄行きに圧倒され、奥行きの深さと気品を感じさせます。「男の中の男柄」として愛される西郷柄は、いかにして出来たのでしょうか。

西郷柄の特徴

(左:草木泥染大島紬 戸口西郷、右:泥大島紬 赤尾木西郷) (左:草木泥染大島紬 戸口西郷、右:泥大島紬 赤尾木西郷)
現代に伝わる西郷柄が出来たのは大正時代と言われています。 その当時、明治末期から大正時代にかけて締め機が研究開発・実用化、絣柄の登録制度が出来たこともあり、様々な柄が考案されていました。各集落ごとに新しい柄、より技術の必要な柄を競ってつくるようになっていきます。 そんな中で一つの柄が出来上がってきます。図案、締め機(絣くくり)、織、分業制の大島紬で腕利きの職人が揃わなければ出来ない最高の柄。島の人々はそんな「品質も技術も素晴らしい」最高の柄を、島の誉である西郷隆盛にちなんで、「西郷柄」と名付けました。 100年以上の時を経た今でもその技術は受け継がれ、西郷隆盛の名に恥じないものをと、愛着と誇りを持ってつくり続けられています。

奄美大島の地図からみる西郷柄

西郷柄マップ 選ばれた腕利きの職人が、誇りをかけて腕を競い合いつくられてきた西郷柄。奄美大島の各地域で、それぞれの集落独自のデザインが引き継がれています。 各集落でつくられる西郷柄には、緻密な絣の世界の中に、優れた技術をもった職人達の誇りが輝いています。西郷隆盛のような男の中の男を演出する最高の柄として、島の人々の誇りを表した伝統的な意匠。身に纏う歓びを感じずにはいられない、素晴らしい技術と作り手の想い、歴史的な物語が込められた織物です。
赤尾木西郷
赤尾木西郷 ホーゲ西郷とも呼ばれる代表的な西郷柄のひとつ。龍郷町の赤尾木地区は東シナ海と太平洋に挟まれ、表情の違う海を毎日眺められる土地です。古くから絣織物が作られ、薩摩藩に支配されていた1600年代初頭には西郷柄の図案に近いものがすでに生まれていたと言います。
浦上西郷
浦上西郷 旧名瀬市の入り口に位置する奄美市名瀬浦上町も古くから大島紬の生産が盛んでした。小さな格子全体が白く浮かび上がるのは経緯ともに絣糸を用いた「総絣」と呼ばれる技法によるもの。古典柄を復元させた柄ですがリズムが楽しくモダンな雰囲気も香る西郷柄です。
浦上新西郷
浦上新西郷 浦上地区で織られたオリジナルデザインの新しい西郷柄です。格子の輪郭や絣の一つ一つがくっきりと浮かぶのは、王道ともいえる確かな手仕事の証。丁寧に作られた絣糸が織り出すコントラストと精密な模様の美しさを堪能いただけます。
戸口西郷
戸口西郷 龍郷町最南端に位置し太平洋に面する戸口地区は、平家の落人伝説ゆかりの神社のある港町。天気の良い日は喜界島が見えます。赤尾木と並んで古くから西郷柄が織られ、白い戸口西郷柄は「第12回あなたが選ぶ大島紬展」で男女問わず人気を集めて第2位に輝きました。
中勝西郷
中勝西郷 店主・泉二弘明の出身地でもある龍郷町の「中勝」という集落で織られた新柄「中勝(なんがち)西郷」。“割込式”により精緻な西郷柄が一層深く豊かな表情に。奄美が誇る「最高の男柄」と「最高の手仕事」を未来へ繋げたいと、新たな挑戦の意志を込めて織り上げられた一反です。
阿伝西郷
阿伝西郷 奄美大島の東方約25kmに位置する喜界島の阿伝集落に古くから伝わる西郷柄で、小さな格子の中にさらに細密な格子が入れ子状に重なる凝った絣柄です。一度は途絶えた柄を高い技術で復元させたもの。端正な表情できりりとした印象を与えます。

西郷隆盛と奄美大島

西郷隆盛が過ごした奄美大島の風景 西郷隆盛の名前を冠した西郷柄。幕末の立役者の一人として名高い西郷隆盛に、なぜ奄美大島の人々は敬愛の想いを抱いたのでしょうか。 1827年(文政10年)12月7日、西郷は鹿児島・薩摩藩の下級武士として生まれました。 16歳の時には、薩摩藩の郡方書役助に任命され、1854年(安政元年)1月には、藩主・島津斉彬のお供として江戸にいきました。しかし、1858年(安政5年)1月に斉彬の急逝の後、「安政の大獄」と度重なる不幸から生きる望みを失い、命を絶つため、僧・月照と共に冬の鹿児島錦江湾の冷たい海に身を投じました。1858年(安政5年)11月16日、西郷が30歳の時のことでした。 入水し絶命を図るも、西郷のみが奇跡的に蘇生。1858年(安政5年)1月、自ら死ぬことも阻止され、お尋ね者となっていた西郷を保護するために、藩政府は奄美大島行きを命じます。 奄美大島に行くまでは、自らを土中に埋まる屍に例えるほど心を病んでいた西郷でしたが、奄美大島で生活をしていく内に、島の人々の優しさに触れ、生きる気力を取り戻してきます。 翌年の1856年(安政6年)11月8日には、龍郷の名家の娘・愛加那と結婚。2人の子供にも恵まれ、島の人々の溢れる愛で立ち直った西郷は、人々のために立ち上がります。 当時、貴重品であったサトウキビの徴収に対して、島役人は過酷な取り立てをおこなっていました。各々に負担される生産高が割り当てられ、そのノルマを納められない場合、拘束され厳しい拷問を受けます。多くの島民が不作とそれに次ぐ不当な懲罰に心を痛めて苦しんでいました。 そのような非情な現状を知った西郷は憤り、自ら在番役人の相良角兵衛へ面会を求めに出向き、農民たちを解放するように迫りました。遂には要求通り農民たちを解放させたのです。 一度は死を選んだ西郷が、島の人々に助けられ、その人々を救うために自ら立ち上がったその姿に島民は感謝し、奄美大島の英雄として西郷を称えました。 そして、それは大島紬の西郷柄にかたちを変えて、西郷の男らしさを表現する最高の織物として、今も島の人々が織り続けています。

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