著者:外舘和子(多摩美術大学教授)
日展、国画会展、新匠工芸会展、日本伝統工芸展 ― 昭和初期以来、日本には次々に団体展や公募展といった染織の発表の場が生まれ、屏風やパネル、壁掛けなど、染織が様々な形状、装丁で展示されてきた。
しかし、そうした展覧会に発表する染織作家のうちでも、とりわけある世代以上の作家は、一方で着物という形状を手掛けることが珍しくない。陶芸家がしばしばオブジェの一方で器を手がけるように、日本の染織作家が着物を作ることは、極めて自然なことであった。また1980年代、制作が間に合わないほど着物の需要が多い時期があったという背景もあるだろう。
福本潮子もまた、染色作家としてスタートした初期には日展や日本新工芸展などの団体展に壁掛けを出品し、団体展を離れた後も、染織の最前線に立ち続けてきた藍染の作家だが、一方で30代の半ば頃から着物の制作にも力を注いできている。
福本にとって、着物や帯という表現形態はどのような意味を持つのであろうか。
藍染の着物を手掛ける
現在、京都で制作する福本潮子は1945(昭和20)年、大阪に生まれた。実際には母親の実家静岡県の清水で誕生したが、出生届を出したのが父の実家、大阪である。10代から絵を描き始め、大阪市立工芸高等学校に入学、ブルーの絵具を主体にした抽象的な油絵を卒業制作にするなど、〝色彩としての青〟に惹かれていた福本が、〝素材としての藍〟に出会うのは、京都市立美術大学の西洋画科を卒業し、龍村美術織物でデザインの仕事をしていた1970年代後半のことである。作家は1970年代末には早くも、藍と相性の良いインド綿や木綿の生地に、折りたたみ縫い絞りなどを独自に用いた立体的な染の表現を展開し、第1回日本新工芸展や第32回京都工芸美術展で立て続けに大賞を受賞している。
しかし受賞が続いたが故に、福本はその後の作品をことごとく受賞作と比べられ、精神的に強いプレッシャーを覚えるようになった。そのような折、作家は着物メーカーから着物を染めるチャンスを得る。いわゆる〝作品〟という気負いを捨て、折りたたみ縫い絞りを基本に反物を黙々と染める作業は、原点に戻るようなニュートラルな感覚を覚えたのではなかろうか。「制作に行き詰まった時、気持ちを切り替えたい時には着物を染める」(註1) ― 福本自身もそう語っている。
但し、福本の着物は、壁掛けなどの作品と作品の間をつなぐ単なるウオーミングアップという訳ではない。1980年代の福本の着物では、藍以外にも茜などの植物染料で折りたたみ縫い絞りの模様染が試みられているが、着物全体のフォルムを生かし、染料の入る部分と防染された白い部分とのコントラストや際を、実に厳しくコントロールした端正な染であった。
着物は福本が青花で線を引き、折りたたんでアイロンをかけ、同じ幅の三重に畳んだあて布に印をつけアシスタントに均一な縫いを指示する。特殊なものは自身で縫いも行う。
大きな作品の場合は、福本と一緒にあうんの呼吸で手が動く、染専用の助手とともに、染料の走りや染め際の濃淡を見極めながら染めていく。染まらない部分の白をどれだけすっきりと抜くことができるか否かが作品全体の水準や品格を左右することは、壁掛けも着物も同様であることに、福本は当初から気づいていた。
第36回京都工芸美術展で新人賞を受賞した着物の作品《淡雪流る》(1982)や、東京国立近代美術館に収蔵されている《花曇り》(1987)などは、福本の染に対する妥協のなさを示している。
生地との関係を作品に
福本潮子の染において、生地は単に絵画でいうところのキャンバスではない。作家は手績みの大麻のさらりとして張りのある風合い、1980年代に出会ったトルファン綿のしなやかで美しい光沢など、生地そのものの魅力を大事にしながら、生地と染との最善の関係を創り上げる染の表現を追求していく。福本をはじめ日本の染織作家が国際的な染のアーティストへと成長していくきっかけとなったスイス、ローザンヌ州の国際タピスリー・ビエンナーレで発表した作品も、《風》(1986)や《風のなごり》(1987)のように、藍染部分を一割ほどに抑え、トルファン綿の白の美しさを藍が引き立て、藍と白の爽やかなハーモニーを奏でるものであった。
トルファン綿の生地は、こうした壁掛け作品だけでなく、福本の折りたたみ縫い絞りの技法による着物でも展開されていく。光り輝くような生地の白さが端正なリズムを刻む様々なパターンの着物が生み出されている。また、布を折りたたんで縫い締める技法は、生地の厚みによっても模様の大きさや間隔が変わってくる。生地が厚過ぎると細かい模様には適さないことなどを着物から学び、それは作品にも生かされていった。
闇に蛍が点滅を繰り返すような模様は、一般に蛍絞りと呼ばれ、藍染の世界ではかねてより見られるものである。しかし2004年の着尺にみるように、福本の精緻な藍の制御と、特にタテのラインを強調し、そこにヨコのラインも控え目に窺わせる規則的な配列によって、着物の矩形や直線構造に沿った文様表現となり、一般にイメージされる素朴な藍染というよりも、知的で都会的な、いわば藍のもつ粋を引き出す、この作家の美意識が窺われるものとなっている(註2)。
個性の強い自然布に挑む
生地にこだわる福本は、特に2006年頃から、しばしば骨董店で魅力的な古布を探しては、買い求め、ストックしておくようになった。「もはや道楽」と福本は言う。古い布にはかつての日本人、特に女性たちが家族のために織り上げた対馬麻や、労働着として汎用されたオクソザックリの古着など、日本人の暮らしの知恵や文化の歴史が詰まっている。2009年に高島屋美術画廊Xで発表された古布を再構成した壁掛けの展覧会は、名もなき日本の織人たちへの敬意を、現代の染色家の表現として蘇生させたものであった。
但し、そうした歴史ある布は、独特の風合いが魅力的であると同時に、個性も癖もある。 この度の銀座もとじの展覧会では、福本自身が買いためておいた大麻布などの生地のほか、銀座もとじから提供された科布、藤布、オヒョウなどいわゆる古代織物といわれる自然布を福本が染めた帯が並ぶ。
大麻布は大麻草の茎の部分の繊維で糸を作り、織って布にしたもの。科布は縄文時代から日本の山野に生育する落葉樹、科の木の樹皮の繊維を糸に加工し、織り上げたもの。今でも織られている歴史ある布である。藤布は春に美しい花を咲かせる山藤の蔓から繊維を取り出し織られた布である。また、オヒョウは古くからアイヌの衣服に用いられた素材で、特にオヒョウの木の内部に水分の多い春先から夏に樹皮を剥がして採取し、科布や藤布にはない独特のぬめりを特徴とする。
染めることで「布の本性がわかる」と福本は言う。染めようとすると、布の自然が強烈に主張し始める。藍をどこまで自然に布にくい込ませられるか。布に個性が強い分、最小限の染で布の個性を引き立てようとするが、野性味あふれる自然布と上手く折り合いをつけることは至難のわざでもある。
福本潮子作 2点ともプラチナ箔
(右)オヒョウ 八寸名古屋帯「スターダスト」、
(左)紙布 九寸名古屋帯「スターダスト」
(右)オヒョウ 八寸名古屋帯「スターダスト」、
(左)紙布 九寸名古屋帯「スターダスト」
プラチナ箔シリーズの帯
今回の展示のメインテーマはプラチナ箔である。福本は既に1992年、金などの摺り箔と藍染を組み合わせた作品を額装で発表しているが、金銀は布に馴染みやすいものの、個性の強い自然布に併せると、金銀の光沢がどこかそらぞらしく弱々しい雰囲気を漂わせる。その点プラチナは自然布の主張と拮抗する強さや存在感がある。福本に言わせればある種の意外性もある。しかしプラチナは金や銀より硬く、伸び難く、布の織目に簡単には入っていかない。生半可な方法では、布が拒絶するのである。八寸ほどの幅に織られた自然布は、本来そのままでも帯として締めることができるものだ。熟練の職人たちの手仕事による一つの完成形でもある。そこに染の作家が挑むことで、帯を染の現代作品へと変換しようというのである。いわばかつての織人との尋常ならざる勝負である。
福本は幾度も短い裂でテストを繰り返し、布ごとに適性の異なるバインダー(糊)の種類や最適な濃度をさまざまに試した。本番の帯で失敗することはできない。汚く見えるか、表現として成立するか。同じプラチナでも、美しいと見えるか、汚く見えるのか、僅かな違いが歴然とした差を生む。
作家は、板の上に布を固定して上下をマスキングし、筆ではなく小さな箒で飛ばすことで、プラチナのドリッピングの生気ある線を残すことに成功した。更に、糊が生乾きのうちに刷毛で箔を叩き込み、荒い布になじませ、より一層生き生きとしたプラチナ箔の強さと藍のコンビネーションを引き出している。
近代建築に合う着物
「着物」は日本の民族衣装であり、和の象徴でもある。京都の神社仏閣に、あるいは町屋によく似合うのは当然である。しかし福本の着物や帯は、そうした古典的イメージの和の世界に似つかわしいことが目標ではない。むしろコンクリートやガラス張りの建物をはじめとする近代建築と呼応する着物 ― いわば銀座のような大都会を歩くのにふさわしい着物を目指している。福本の染にみる毅然とした模様や媚びのない風合い、規律正しさのようなものは、そうした美意識に拠るのであろう。藍染の着物のような、本来素朴で柔らかいものほど「どこかにきりっとしたものがないと。将棋や碁の面白さも、あの直線の升目が合ってこそ。最先端の空間に似合わなければ着物は生き残れない」。
福本の着物の模様が、次第にシンプルになりつつあることも、そうした現代空間に対する意識の反映であろう。この作家の着物と帯は、あるいは日本の着物が国際化する鍵を握っているのではないかと思われるのである。
註1 福本潮子に対する筆者インタビュー、於京都の工房、2016年3月1日。以下、文章中の作家の言葉はこれによる。 註2 『福本潮子作品集 藍の青』赤々舎、2015年、134~135頁参照。