※こちらは2014年に公開した記事です。
著者:田中敦子(工芸ライター)
1年で1番冷え込む寒中の夜明け前、山岸幸一さんはもう作業を始めていた。この時期は空気も水も澄み渡る。ゆえに紅花の赤が冴え冴えと美しく仕上がるという。車のヘッドライトが吹雪を照らす極寒の朝4時に、米沢市街から車で20分の赤崩にある山岸さんの工房を訪ねた。
木桶の中には前夜から準備してきた紅花の絞り液。そこに少しずつ烏梅(灰で燻した梅の実)のエキスを注ぎ、ほのかに酸味を感じる頃合いを舌で確認したのちに、真綿糸を浸す。みるみる赤く染まる様子に目が覚める思いだ。糸を繰って染めては空気にさらし、染液にエキスを足して、また浸す。繰り返すうちに、糸が染料を吸い込み赤みを増し、染液は透明に戻っていく。
山岸さんは工房内に引き入れた自然流水から水を汲み、その冷たい水で染め上がった糸を素手で洗う。暖房のないここの温度は氷点下かもしれない。が、山岸さんは作務衣姿だ。自然流水の静かな水音。ちゃっぷんちゃっぷんと糸を繰りながら染める音。凍てつく空気の中で、白い吐息を漏らしながら、ただただ作業を見つめた。
「あ、夜が明けたね」
ふと顔を上げて窓の外に目をやった山岸さんは、そそくさと長靴を履き、染め上がった糸を手にして外に出る。
工房内の自然流水は外の小川につながっている。小川の両側には小高い雪層ができている。吹雪は止んだが、冷気が肌に突き刺さる。しかし山岸さんは慣れた様子でさぶざぶと流水に入り、糸の発色をうながす。雪の白、紅花の赤。朝の空気の中、鮮烈な色彩に息をのんだ。
赤崩との出会い
紅花は太古より尊ばれてきた特別な植物染料で、山形を象徴する花でもある。山岸さんと言えば紅花の寒染め、というくらい代表的な作業だ。けれど、山岸さんの仕事は、紅花だけでは語りきれない。私たちが紅花という大女優の存在に目を奪われているその舞台裏で、営々と続けている染織作業のすべてにおいて、山岸さんは寒染めに匹敵するくらいの大仕事をこなしているからだ。養蚕、糸作り、染料になる植物の栽培や採集、染料作り、糸染め、織り、仕上げ。これを一貫して行う工房は、世界中探してもかなり希有な存在だろう。
「ミネラルたっぷりのアルカリ水なんです」
草木染めをするなら、自然流水があり、空気がきれいで、明るい土地がいいと、県内を探し回った。最終的にここの自然流水に出合ったとき、昔の記憶が蘇った。かつて病床の祖母が、唯一口にした水のこと。米沢にある名料亭の主人が赤崩の水で魚を育てるのが夢、と話していたこと。
車を降りて、〝瑠璃光さん〟の入り口にある水場で喉を潤す。なんともまろやかな味。
「この水で花を生けると枯れないんですよ」
そして選んだのが小川の流れる手つかずの原野だった。土地を開拓するところから山岸工房の歴史が始まったのだ。1975年、日本の高度成長が極まり公害問題が深刻化、有吉佐和子の『複合汚染』がベストセラーになった時期、山岸さんはこの地で独立し、前近代的な手法へと邁進することになる。
力織機から手機へと
江戸時代後期、財政難に喘いでいた米沢藩を立て直した第十代藩主・上杉鷹山公は、多くの再建策を打ち出したが、その中に養蚕の奨励や紅花の栽培があり、これらが米沢織物の基礎となった。が、明治の近代化政策により織物の産地は地場産業化、山岸さんが生まれた1946年には、機織りといえば動力による力織機が主流だった。分業、化学染料、機械化。織物で栄えてきた土地は、伝統の手仕事から大きく舵を切り、様変わりしていった。「織機の音が子守唄でした。機が止まると泣いたらしい」
山岸さんの生家は米沢の袴地の織屋。曾祖父は青苧と呼ばれる上質な麻糸を扱っていたが、時代の流れで祖父の代には織物業に転身した。工場には力織機がずらりと並び、織り子さんたちが作業していた。父を始め、祖母、母も忙しく働く工房で、山岸さんは育ったのだ。
米沢の工業高校で染織を学び、卒業後はそのまま家業に入った。長兄が経営、次男の山岸さんは機械管理を担当。当時は服地が中心だったという。
力織機は、経糸が切れればドロッパーが落ちて機械が止まる。緯糸も巻き糸が少なくなるとストップするなど、なかなかに人間臭い。この面倒をみるのが織り子さんの仕事だ。そのためにも、機はいつも上機嫌に保ちたい。 「機械の調子は音で察知できるくらい仕事しましたね」
故障すれば、翌日までに修理を終えるべく、工場に泊まり込むこともしょっちゅうだった。ある日、元織り子のおばあさんが遊びにきて、ふと呟いた。
「昔はなあ皆おらたち機織ってたんだけどな、今の人は機織っとらんもんなあ、という言葉を聞いたわけですよ」
当たり前のように力織機を扱っていた若き山岸さんは、虚をつかれた。機械織りと手織り。違いはなんなのだろう。
「屋根裏に放置されていた高機を思い出してね。工場の仕事が終わってから、とにかく一反織ろうと思ったんです」
苦労して織り上げた紬は、指先で押すとふわっと戻った。しかも軽い。機械織りは指跡を残したままで重さもある。
「これがわたしのスタートだね」
力織機の申し子だからこそ、その差が痛いほどわかった。コペルニクス的転回が山岸さんの内部で起こったのだ。木製ゆえのひずみがある手機から生まれる風合いは、着心地が断然違う。そう気づいた山岸さんは、仕事が終われば機に向かった。寝食を忘れるほどに取り憑かれた。同時期、草木染めの素晴らしさにも衝撃を受けたという。上杉家の名品を収蔵する上杉神社稽照殿にある、謙信公ゆかりの刈安染めの装束。
「昨日染めたような金茶色でね。保存もいいのだろうけど、400年も経ってなんでこうなのか、と」
そうか、糸も染料も生きているからだ。
「変わっても見られるもの。つまり変化してなお美しいものが、明治以前のものづくりなんですよね」
糸にも注目した。不思議なきらめきがある。
「明治以前の糸は扁平糸なんですよ。座繰り糸を取るときに赤ちゃんの産毛に当てて引き出していたんです。すると扁平になって鞣(なめ)され、軽くて丈夫にもなったんですね」
糸、染め、織りの三拍子揃ってこそ、風合いのいい美しい生地が生まれる。ただ原点回帰するのではない。現場を知り、手を動かし、目で確認して、より美しくなる方法を選択する。それが、非効率的で、生活に負担をかけることであっても、山岸さんは信念を曲げなかった。
ほんとうの草木染めを求めて
独立前、山岸さんは伝統的な紬の産地である結城で修業し、草木染めの心を山崎青樹氏より学んだ。草木染めという言葉は、山崎青樹氏の父、山崎斌氏が化学染料に対し、天然染料の表現として、生み出したものだ。息子である青樹氏はその言葉を独占せず、草木の色の美しさを知ってもらうためにも、広く使われることを願った。青樹氏の「草木染めは心の豊かな貧乏でないとできないよ」という言葉にも打たれた山岸さんは、紅花や藍草、山藍を始めとする染料になる植物を自分で育て、また昔ながらの自然媒染や無媒染で色素を染め重ねようと考える。紅花の寒染めでは、前年染めた糸に染め重ねる作業も平行して進めていたことを思い出す。「植物染料って時間が経つほど糸の奥に浸透していくんです。だから1年寝かせて染め重ねるといい色になるんです」
また、時間をかけていい色を定着させるためには生糸の天然コーディングであるセリシンと呼ばれる蛋白質が重要になる。これがまた悩ましい。
「仕入れた真綿や糸だと製糸する過程でセリシンを取り除きすぎるので、植物染料が定着しにくくて、染めムラができるなど思うような色にならないことがあったんです」
よりよい繭を探しているうちに、山岸さんはいっそ自分で養蚕を手がけようと思い立つ。これは寒染めよりも大変な作業ではないだろうか。餌になる桑も育てなければならない。しかし、「ないものは作る主義なんです」と楽しげに笑う。
糸作りも、自ら紡ぎ、工夫を重ねた。
「軽さと温かさを求めると、中空の糸が理想なんです」
ここではフライヤーと呼ばれる糸繰りの道具の力を借りることを選んだ。ブーンと唸るワイヤーが繭を袋状に広げた帽子真綿に働きかけ、吸い込むようにして糸になるさまは、細い細いマカロニを連想させる。
「遠心力が働いて、ほとんど撚りを掛けることなく、中空の糸を紡げるんです。これは機械じゃなくて道具ですね」
そして、これらすべての集大成が機織りで、山岸さんがなにより好きな作業だ。すばやく踏み木を踏んで経糸が開口し切ったその瞬間に、緯糸の杼を投げて、まるでピアノを演奏するような姿で両手指の第一関節を使って、ぱんぱんっと筬を打つ。筬が経糸を通過する距離は最短で、緯糸がもっとも美しく見える位置に的確に打ち込む。素早く、リズミカルに、糸に負担をかけないこと。それが最も基本的な平織りを美しく織るために不可欠なのだ。 「私の織り方だと中空糸が扁平にもなる。つまり丈夫で美しい明治以前の糸になるんですよ」
山岸さんの織りは、基本経糸・緯糸ともに真綿の紬糸だが、高機でありながら、経糸の張りを微妙に調節する工夫をして、腰で経糸の張りを調節する地機織り結城紬の風合いを可能にした。こうして生まれるのが、草木染めの双紬織物である赤崩紬だ。
「結城紬は真綿の、大島紬は生糸の双糸。同じ性質の糸同士のほうが丈夫だとわたしは思うんです」
赤崩紬を結城紬や大島紬と並び称される存在にすることが、山岸さんの目下の目標だと言う。
古きを温め、未来を目指す
昨年の日本伝統工芸染織展に、山岸久子の名前があった。山岸さんの長女だ。
作品は、爽やかなブルーと淡い黄色の優しくも意志的な浮織りだった。
「大学で染織を学んでうちに戻っていたんですよ」と山岸さんは相好を崩す。工房では養蚕、畑での染料作り、糸作り、染め、織り、と制作の順を追うようにして学ぶこと5年。その節目での初出品、初入選の快挙だった。 「私は入選に20年かかったのに」と山岸さんは苦笑いするが、それは明治以前の草木染め真綿紬が工芸の領域で評価されるまでに必要な時間でもあったろう。入選以後は確実に評価が高まり、着心地抜群で、着るほどに色美しく風合いを高めるその紬は、多くの着物ファンの心を掴んできた。
「まだまだ父の平織りに匹敵するような表現力はないので、浮織りを選びました」
浮織りは米沢織物の一表現でもある。ただし久子さんは、地の糸をマットな真綿糸に、浮き織りを艶のある座繰り糸にして、光沢のコントラストを引き出した。話しながら久子さんは手を動かす。灰汁で煮た後に清水に浸した繭から中のさなぎと最終脱皮の殻を取り出し、薄綿状に広げて帽子真綿を作っていた。
「この繭は生繭で冷蔵保存していたもの。一般的な乾繭に比べて繊維の伸びがよくて、いくらでも広がる感じです」
養蚕は、料理の修業をした後に戻ってきた長男の大典さんが中心になって春蚕、秋蚕、そして天蚕を育てている。その大典さん、染場で臭木を煮出し、染めの準備中だ。淡いブルーの色素を出す臭木の実は、大典さんと久子さんが採取してきたものだ。奥様の美喜恵さんも子育てを終えて、手伝えるようになった。独立して約40年。山岸さんの長年のがんばりが、家族を仕事に引き寄せたのだ。
山岸さんが臭木で色染めを始める。しばらくの後、染めた糸を絞って、ぱんぱんぱん、と快い音を立てて糸をさばいた。
「こうしてね、さばき風を入れて、色を発色させるの」
染色は、水、風、太陽。口癖のように山岸さんは言う。
自然流水、さばき風、そして日の光に当てて色を引き出す。自然の力を借りて、自然に逆らわず、最良の方法を選んで、ひたすら美しさを求めていく。それは私たちが近代化の中で失った宝物。当たり前だったはずの、当たり前でない営みが、次の世代に受け継がれようとしている。
ぱんぱんぱん、もう一度さばき風を入れる。ひんやりと青く染まった糸がひときわ冴えて、きらりと光る。
紅花とプラチナボーイの出会い
銀座もとじの泉二弘明社長は山岸さんの紬に衝撃を受け、虜になったひとりだ。糸、色、織りのすべてにただならぬ力強さがあり、ぜひ扱いたいと思ってからもう20年近い歳月が経つ。最初の5年は、山岸さんを口説くために、何度も何度も赤崩に通ったという。通うたびに、最初に受けた印象の理由が確たるものになっていく。その仕事、その生き方、誰にも真似のできないスタイルが生み出す紬だ。取引に躊躇していた山岸さんも泉二社長の熱意を意気に感じ、二人の思いがひとつになった。本物を作る心と、素晴らしい紬を一人でも多くのお客さまに伝える思いが呼応して、山岸さんの作品展はいつも熱気に溢れている。銀座もとじでは9年前から雄だけの国産蚕種・プラチナボーイでのものづくりを始めているが、細く、強く、しなやかな糸は高い評価を得ている。その一番最初の春蚕の生繭を、泉二社長は山岸さんに託した。量は30kg。この重量の繭からとれる真綿の糸は約5kgにしかならない。一反に必要な真綿糸が1kgと考えると、そこから織り上げられるプラチナボーイの紬は5反ほど。今回はその一枚が登場するという。
「プラチナボーイの糸は雄だけの蚕のためか、糸の毛羽の方向が一方向なんです。だから美しく光を反射するんですよね。白さと艶は格別です」
そう語る山岸さんは、この糸を紅花で染める意味も教えてくれた。
「紅花には蛍光性があるんです。紅花で染めた糸や生地は、照明を消しても発光して色が感じられるんです。これを光沢のあるプラチナボーイで染めれば、より素晴らしいものになるわけですよ」
血の道にもいいという紅花。プラチナボーイの風合いと光沢を得て、山岸さんの紬は、着る人をどこまでも幸せにしてくれそうだ。
山岸幸一 喜寿記念展
~植物染め 祈りの織物~
会期:2023年11月24日(金)~26日(日)
場所:銀座もとじ 和織、男のきもの
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和織 03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472
(電話受付時間 11:00~19:00)